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眠れぬ月  b a b y , s l e e p l e s s m o o n


「そこの茶色いビン、取ってもらえますか?」
「どれだ。」
「SUGARって書いてあるやつ。」
 それをきいて飛影が怪訝そうにいう。
「コーヒーに砂糖を入れていたか。」
「オレ?」
「ああ。」
「いいえ。」
 彼は。
 いつも無関心そうにしているくせに、
「あなたは、おかしなこと憶えてるんですね。」
「俺は別に……。たまたまだろう。」
 彼が決まり悪そうにそっぽを向く。
 そういう些細なことが意外とうれしかったりする。しかしそんな素振りをみせて彼に厭がられるのも何だから、今はさらりと受け流すことにする。
「正解。あなたの記憶通りコーヒーに砂糖は入れません。だからこれはあなたの分。」
「?」
「以前、あなたがコーヒーに砂糖をひとさじ入れていたのをみかけたから……。」
「……。」
「済みません。余計なこと憶えていて。」
「ふん。」

 久々に彼の顔をみて、少し安らぎのようなものを感じている。そして今日の彼はどことなく優しい。いつもの毒はどこに置いてきたのだろうか。あまり毒気がないと甘えたくなるので反って毒なのだが。
「コーヒーカップとか洒落たものはないけど。はい、どうぞ。」
「ああ。」
 紙コップに注いだコーヒーを手渡して斜向かいに座る。
「熱いから気をつけて。」
 彼はときどきものいいたげにオレの様子を覗う。
 でも今は目を向ければすぐに逸らしてしまうのを、ただほほえんでみつめ返すだけ。いいきっかけさえあれば彼が自分で口を開く。だからそれまでは特別問題にはしない。それに夜はまだ長いのだ。何も急くことはない。なにより用が済めば彼は自分の居場所に帰ってしまうのだろう。それが先延ばしになるほうがオレにとっては都合がいい。
 月夜の人恋しさか。
 彼にはいい迷惑か。
「うまい。」
 彼がつぶやく。
「それはどうも。」
「このコーヒーには例のおかしなものは入っていないのか。」
「『あなたをつなぎとめておくための魔法の薬』が入ってますよ。」
 オレが困らせるようなことをいってからかうのを、
「そういう恥ずかしいことを平気な顔をしていうな、ばか。」
 彼が煩わしそうに吐き捨てるいつもと変わらない景色なのに。
 今宵は月が明るい。
 雲ひとつない空の屑星を包み隠す月夜の下では、ねじれたリズムを刻む時計が動き出す。
「しかしよくやるな、おまえも。」
 小さなため息をきっかけに、彼が口火を切る。
 彼のことばはいつも少なく、どこにかかっているのかが分からないことが多い。今日もそうだから、十六夜の月をみつめたまま、あくまで冷めた口調で答える。
「何のはなしですか?」
「たいへんだろう、馬鹿の相手をし通しでは。」
 ……。
 ああ、そこにかかるんだなと、勝手に理解する。彼のいう馬鹿、すなわち桑原くんのことなのは確認するまでもない。
「そんなことありませんよ。」
 軽く否定する。本当はどちらともいえないが、今更そんなことを論じる気はない。
「たいしたボランティア精神だな。」
「……。」
「過剰奉仕もいいが、他人を構い過ぎて自分のことをおろそかにして、結果殺されでもしたら洒落にもならんぞ。」
 ひとことひとことがやけに引っかかる。どうも厭な予感がする。
「本当は手に余るんだろう。早いうちに捨てるんだな。」
「それは……。」
 今日初めて、彼を鋭く睨み返していた。
 感情的なものいいはしたくない。少し息を置いて、いつもの調子を取り戻してから受け流す。
「あなたにいわれることではない。」
 そのまま顔を背けるが、彼が困った者をみるような目をしていることはなんとなく分かった。
「一般人が巻き込まれているんだし、自分ができる範囲で手助けするのは悪いこと?」
「巻き込まれているのは奴の勝手だ。」
「無責任ですね。」
「責任を持つようなことか?」
「やれるだけのことはしてあげるべきだと思ってる。」
「……嘘。」
「何が……?」
 彼が半ば呆れたような素振りをみせて、嘲笑うようにいう。
「下手だな。」
「だから何が?」
「おまえ、自分ではポーカーフェイスのつもりかもしれんが、時々滑稽なくらい分かりやすいぞ。」
 そのことばには少し頭にきた。しかし間違っていないから何もいい返せない。
「よく飽きんものだ。あいつの顔を朝から晩まで……。」
「別に朝から晩までじゃないよ。家にも学校にも顔出すし。」
「それから桑原の面倒か。」
「時間の許す限り。」
「おまえのことはいつやるんだ?」
「時間が許したとき。」
「で、許すのか?」
「あなたは。」
「……。」
「喧嘩売りに来たの?」
 再び彼に鋭く目を向けてしまう。声の調子は落ち着いていたが、繕われた冷静の隙間から隠し切れない感情が滲み出している自分がいて、ひどい嫌悪感が残る。その上彼も彼で、いつもなら口喧嘩になりそうなシチュエーションを懐深く取り込んでみせるのだから……。
「どうした、おまえらしくない。」
 すべてを知っているような彼の眼差しでだらしなくいいきかされている自分は弱くて無様だと思う。
「ごめん。……疲れてるのかな。」
 打ち消すように軽く笑ってみるが、自嘲の気配は拭えない。
 彼は何もいわない。
「やっぱりエゴなのかな……。」
「……。」
「……って、最近思う。」
 暗黒武術会。
 桑原くんは知らない。その本質も、恐ろしさも。
 オレも噂で知るのみだが、多少の霊力を扱えるだけの人間に生き残る術を求める難しさはよく分かる。確かに桑原くんの強さは人並以上かもしれない。ただ、それでもやはり『多少の霊力を扱えるだけ』で、格闘に関する素質なら同じ人間の幽助のほうが遥かに上をいくだろう。いくら根性のヒトでも今回ばかりは結果がすべてだ。命がかかっている勝負に『努力賞』はない。次回がんばろうといえる『次』もない。
「桑原くんは『たいせつなヒト』を守れるだけ強さが欲しいらしい。」
 知識がないということは時に残酷で、夢中になった分だけ失うものが大きいことを知っているから。
「楽観視してるな、って思うことがたまにある。」
「……。」
「でも……。」
 一番無責任なのはオレなのかもしれない。多分、手助けだと思っていることは単なる自己満足にすぎなくて、手を貸せば貸すだけ死に近くなっていく作為の罠な気がする。
「本当は、楽観視してるのはオレだな、とも思う。」
「……。」
「厭だな、いつから偽善者になっちゃったんだろう……。」
 うわべだけ冗談のように笑ってみせる。
 こんなことを漏らすのは、現状を訴えたいからではない。はなしをきいてもらえれば楽になるようなことではないし、今すぐに答えがほしいわけでもない。こういうことを何と呼ぶか、本当はオレ自身よく知っていた。
「……弱音か。」
 彼が面倒臭そうにため息をつく。
「否定しません。」
「まったく。偽善者になっただけましだろう。元々善者でもなかったんだから。」
 慰めとも冗談ともつかないことばの後、彼がいった。
「そう簡単には死なんさ。」
「飛影……。」
「生きるか死ぬか、それが戦って勝ち残ることの結果だとしたらな。要は勝てばいいんだ。それなら幽助やおまえの力を借りんでも俺ひとりで充分だ。」
 そう淡々と語るが、彼にしても完全な自信を持っていっているわけではないことくらい分かる。
「頼もしいんですね。」
「思ってもいないことをいうな。」
 退廃的な空気。
 そこから抜け出す気力が生まれない。
「怖いか?」
「何が……?」
 何を指していっているのかは分かっているし、彼は答えないことも分かっている。ただ時間稼ぎのためにきき返しておいて、唯一の傍観者、十六夜の月を仰ぎみる。満月より年をとった月が冷ややかに嘲る。
「みるに堪えんな。」
 つき合いきれない、大きなため息をついて、彼が立ち上がる。
「今の弱さなら、貴様、本当に死ぬぞ。」
「……そうだね。」
「!」
 今の受け答えは、完全に彼の許容範囲を越えた。彼はオレの右肩に足をかけて、避ける間もなく冷たい地面に蹴り倒すと傍らに片膝をついて襟首を掴み上げた。
「武術会など待つ必要もない。今、俺が殺してやる。」
「……。」
「殺してやる。」
 オレはただ静かに笑って襟首を掴む腕を取って放させた。そして今日初めて彼を真っ直ぐ見据えて、彼の一番厭がることばをつぶやいていた。
 振り払えない退廃に浸かったままで口を吐くことばは、ひどく危険な匂いがする。
「貴様……。」
 雑言が浴びせられるのは覚悟の上だ。しかし。
 鋭い殺気をまとったまま緩やかにオレの左腕を取ると、そのままくちびるにあてがう。
「このまま、噛み切ってやろうか?」
 彼が押し殺した声でささやいた。
「飛影……?」
 手首にくちびるが触れる。愛しいものを扱う所作のように込められた熱情を感じる。
 そしてゆっくりと歯が立てられる。加減もなく噛みつかれた歯が肌に食い込む。その痛みだけで気が遠くなるように力が抜けていく……。

 ぽつりと漏らしたことばは、いつもと変わらない不器用な男の表情をみせていた。
「まったく、困った奴だな。」
 歯が立てられていたはずの手首には弁解するように彼の舌が這っている。
「血が出てる。」
 容赦ない仕打ちで負った傷。
「貴様が止めないからだ。」
「殺る気がないなら手加減してください。」
 彼が視線を向ける。
「なぜ分かった?」
「『殺る気がない』ということ?」
 一瞬だけ目を合わせてみる。罪悪感が絡んで逸らした視線の先には月が優しく陰る。
「それは分かるでしょう、短いつき合いじゃないんだから……。」
「馬鹿。」
「きこえない。」
「今日はどうかしてるぞ。」
「あなたもね。」
 掴まれたままの腕を振り解いて、まだけだるさが残る身体を起こす。不思議なことに、この場を支配していた退廃は跡形もない。手首に刻まれた傷跡を確かめるように指でなぞる。くっきりと残った歯型を再確認して、後は恨みごとのひとつもいいたい。
「だいたい、あなたが悪いんですよ。思わせぶりに優しかったりするから。」
「俺のせいにするな、迷惑な奴め。弱さは貴様自身だろうが。」
「いいじゃない。のべつ幕なし気を張ってたら疲れる。」
「……。」
「たまには弱音くらい吐きたい。」
 独り言なってもいいから、小さく漏らしたひとことに、彼が答えをくれた。
「……吐けばいいだろう。」
「?」
 彼は背を向けて素っ気なくいう。
「俺では足りんか?」
「……。」
 ……どうやら彼にとってはかなり恥ずかしい台詞だったらしい。
「あなたは……。ふ……。」
「笑うなっ!」
「だって。」
 後悔先に立たず、照れ臭そうな背中みせたまま動けない彼はかわいいと思う。でもあまりからかうともうこちらを向いてくれないだろうから、オレはただ笑って答える。
「充分すぎる。」
 それが今日一番の本心。
 彼の空気に接するだけで、痛いくらいに満たされている弱い自分がここにいる。


金魚の水槽

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