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手のひらの上  r u l e r


 確かに、しばらくの間は一人で出歩くなといわれていた。慣れるまでは。例え『城内』でも。ここにはおまえに反感を持つ者が多い、だからと。
 それをきいたとき、オレも随分みくびられたものだなと、多少なりとも不服の感情を覚えたものだったが──今分かった。ここでは黄泉のほうが全面的に正しい。
 人気のない廊下で物陰から現れた二人の男にいきなり襲われ、そのままどこかの個室に連れ込まれ、二の腕を掴まれてベッドの上に転がされた。多分、士官室の空き部屋か何かだろう。室内の暗さと淀んだ空気と埃っぽい匂い。そして、こんな状況でも冷静でいられる自分に驚きだ。
 身体を起こそうとする間に、暴漢の一人が馬乗りに覆い被さってくる。
「本当にただのガキだな。」
 男の顔にみ憶えはない。オレが抵抗しないのをいいことに、シャツのボタンを外しにかかる。
「黄泉様が自ら推される幹部候補だときいたから、どんな奴かと思えばこんな……、『人間』のガキとはな。」
「黄泉様に何をした。」
 もう一人の男がいう。オレの上に居る男のような昂ぶった笑いはなく、ベッドの傍らに立ち、酷く蔑んだ目でみ下ろす。
「随分手の込んだ手技を使ったんだろうな。」
 いきなり平手打ちをされる。オレが空いた足で膝蹴りを食らわせようとしたから──だが、あっさりかわされ、代わりに恐ろしく重たい拳がみぞおちにねじ込まれる。そして平手。
「そうそうその『手技』で!」
 片手でオレの喉を押さえつけながら、真上の男がいう。
「俺たちのことも楽しませてくれよ……。」
「……く。」
 苦しい。息が出来ない。
「近くでみると、なかなかかわいい顔をしているじゃないか。人間なのは惜しいが。」
 もう片方の手で乱暴にシャツを肌蹴させる。まだ笑っている。
 万事休すか。この身体には世話になったが、悪いことをしたな。オレに選ばれなければ、こんな憂き目には遭わなかった身体。本体としての自我がないことがせめてもの救いか──
 次第に遠退いていく意識の中で、オレは奇妙な音をきいた。スプレーを噴射するような、細い音。だが、もっと大きな音。真上からきこえる。だが、空の上のように遠い。そして、窓を開けろという声。だめだ開かないという応答。霞む視線の先で、一人倒れ、二人倒れ……。

「吐き気がする……。」
 と呟く自分の声で目が覚めた。
 本当に酷い吐き気。だが、淀んだ空気のせいではない。夢か。ここはあの部屋ではない。それに、この空気はよく知っている。
 オレはベッドに横たわっている。吐き気のせいで起き上がる気が起きない。少し寝返りを打つ。ただそれだけのことでも身体が痛む。その痛みが刺激となり、頭の中にフラッシュバックが起こる。
 息が苦しい。厭な汗が流れる。
 その場ではあれ程冷静で居られたのに──この感情は明らかに恐怖だ。吐き気が止まらない。
「気がついたか。」
「……!」
 その声に、思わず肩が震える。よく知っている声。当たり前だ。その声も、空気中に満たされた嗅ぎなれた匂いも、この男のもの。
「黄泉……。」
 ベッドがひとつ在るだけの小さな部屋を、オレは今初めてみ渡す。ここも知っている。黄泉の執務室の隣にある仮眠室だ。静かに部屋に入ってくる男は、手に水差しとコップを持っている。
「どこか痛むところは。」
 ベッドの端に腰を掛け、黄泉がコップに水を注ぐ。まるで顔を合わせるのを避けるように。その背中は、冷静を装っているが、多分怒っている。巧妙に隠そうとしているが、横顔は昔よくみた、はらわたが煮えくり返ったときの顔だ。
「吐きそう。」
 とオレが答える。
「そうだろうな、あの催眠ガスを吸うと大抵そうなる。」
 オレの身体を起こすのを手助けしながら、やはり顔を合わせない。そのままコップの水を渡される。吐き気のせいで飲む気はしない。しかし、飲まなければ更に怒らせるのだろうな……。
 催眠ガス。確かにそういった。
 なら、オレがきいたあのスプレーのような音は、
「催眠ガス……。」
 頭がはっきりしないせいか、思ったことがいえない。設備図をみたことがある。敵の侵入に備え、天井からは水や可燃性の液体、致死性のガス、催眠性のガスが噴射され、場面によって使い分けると。
 オレが水を飲み終わるのを待って、黄泉が深く長いため息を吐いた。そして静かに、
「俺は警告していた。一人で出歩くなと。」
「……。」
 オレの反応が悪いので、いきなり黄泉は怒鳴った。(弁解ではないが、反応が悪いのは吐き気のせいだ。)
「俺の気づくのが遅れていたら、どうなっていたか分かっているのか!」
 オレは答えた。
「かくごはしてた。」
「強がりをいうな。まだ肩が震えている……。」
「……。」
 事実を突きつけられるとことばが出ない。黄泉の手がオレの手からコップを取り上げ、サイドテーブルの水差しの横に置いた。
 沈黙の後、黄泉が手を伸ばす。
 少しだけ距離が近くなり、少しだけ髪に触れた。そしてその手が、拒絶を忘れる程自然に、オレの肌蹴たままのシャツを掴んだ。
「黄泉……。」
「……。」
「まだ、怒っているのか。」
「おまえは。」
「え。」
「少しは落ち着いたか。」
「……。」
 オレはただの子供のように、黄泉のする行為を受け入れた。
 肌蹴た胸元を合わせ、ボタンをひとつ、ひとつ、留めていく、ただそれだけの行為を。
「……うん。」
 返事をしながら、オレは酷い敗北感が腹の底に沈んでいくのを感じていた。オレはまだ、この男の保護なしでは生きていくことができない。それを理解しているからこそ、まるで身体を許しているような錯覚を受ける。
 支配されていく。恐らくその感情は、逆の行為を与えられるよりも深く、深く身体に刻み込まれていく──

 ボタンを留め終わると、黄泉はすぐに立ち上がり、背中を向けた。
「気分が悪いならここで寝ていればいい。無理して部屋に戻るより安全だ。俺は仕事があるから隣の室に居る。用があったら呼べ。……まあないだろうが。」
 最後の台詞を自嘲気味につけ加え、黄泉が部屋を出ていったのはもう何時間か前のこと。
 オレは黄泉の匂いのするベッドに横たわり、眠れない時間に苛まれ続ける。ドアの隙間から漏れる隣の室の明かりをぼんやりと眺めながら、中途半端に侵略されたこの身を休めることもできず……。


金魚の水槽

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