Date  2 0 0 8 - 1 0 - 1 2  No.  0 0- 

安心の詩  a n s h i n - n o - u t a


 鍛冶は家路を急いでいた。
 雪の山道を進む。
 今日は朝一番に山を下り、ふもとの町で暮らしに必要な用事を色々と済ませた。昼に馴染みの茶屋で軽く飯を食い、その後、ひいきにされている客を何件か回った。雪が降り始めたのはその頃だ。最後に、これも馴染みの料理屋で修繕の包丁を預かって、暖簾を出る。不図み上げた山の様子に、まずいなと思った。
 山の暮らしも長くなると、雲や風の動きで天気が分かる。薄灰色の曇天を仰ぎ、これは降るなと思う。
 山に住んでいれば、雪が降るのは仕方がない。後は住まう者が如何にそれを受け入れるか。

 空の曇天が更に色を濃くし、まだ日が差す時間な筈が、日の暮れ時のように暗い。鍛冶はぶるりと身を震わす。一歩一歩踏みしめる。

 朝から小屋を空けていた。当然、朝から火は焚いていない。かなり冷えていることを覚悟して、小屋へと抜ける最後の細道を進んだが、ようやく帰りついた小屋はなぜか灯りがともり、煙突からは暖かげな白い煙が上へ上へと昇り、雲との境をなくしている。
 この雪の中、山を登るような物好きな客はこの土地には居ない。
 客ではなく。勝手に小屋へ入り、火を使うような輩は。
 
 入り口の戸を開けると、薄暗い土間の片隅に、髪の長い人影が、暖炉に薪をくべていた。しゃがみこんだ姿。炎に照らされる横顔はまるで作り物のように表情を変えない。
 鍛冶は身体についた雪を払う。冷え切った室内を覚悟してきた分、小屋の内の暖かさは心をほっと和ませた。
 外套を外す。普段つけている綿入りの袷(あわせ)を羽織る。闇の藍色と炎の橙色が不思議に交じり合った空間。
 ふもとの町から持ち帰った仕事たちを並べていると、音もなく、男が傍に立っている。湯気の立つ何かを手渡される。
「ざいがあったからかってにつくった。」
 男が初めて口をきく。
 酒粕を湯で溶いた。甘酒のようにみえるが、何かの薬草をすり潰したものを混ぜてある。
 鼻を近づけると薬草らしい独特の匂いがした。口に含むと爽やかな香りが鼻に抜け、飲み込むと胃の腑から熱が湧き出るような感じがした。寒さに縮んだ筋肉が緩やかに融かされていく。温まる。
 鍛冶の顔色を確認し、男は少し微笑んだ。一体どちらがほっとしているのか。あまり口をきかないまま、客用の寝台にごろりと横になり、布を掛けて目を閉じる。
 数秒後には眠ってしまう。

 この雪の中、客は来ない。仕事はある。
 不図寝台に目をやると、すっかり緩んだ様子で、寝息を立てて眠る男。
 迷い猫。そんなことばが頭の片隅を過ぎる。穏やかな気持ちになる。
 だが、ほんの一瞬だけだ。すぐに仕事を再開させた手は、心に染みを作り始めた温い幻想を打ち消すように、休むことを恐れる。


金魚の水槽

HOME  MENU

Copyright (C) Kingyo. All rights reserved.