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林檎  a n A p p l e


 鍛冶は多忙である。世間をみれば、一見何も起こらないようで、実際どこで何があるか分かったものではない。それが最も端的な世界観なのかもしれない。作業台に並ぶ刀剣には、少なからず血が付着したものが数点在った。鍛冶はため息を吐く。
 ここは静か過ぎる。真夜中に遠くの荒野で誰かの雄叫びがきこえる、ならまだいい。それすらないこの場所では、その手の感覚が薄れるらしい。だから血は、鍛冶を不快にさせた。
 金が手に入るからやっている仕事だ。……天職だと公言しながら、反面思ってしまう自分がいる。恐らく、そう思うことで安心したいのだろう。自分の、血や殺戮にみる感覚が、間違ってはいないということを────。

 濁った重苦しい赤をみた後にみると、その赤には心を和ませる効果があるようだ。
 林檎。
 男は寝台の上に仰向けに転がっているらしい。相も変わらず、鍛冶の寝台がお気に入りか。作業場からは、その男の三角に立った耳、そして右手に持たれた林檎が覗くだけだ。
 妖狐は「この林檎を食ったら帰る。」といっていた。一口目、つまり最後に林檎に口をつけてから、何時間経つだろうか。
 鍛冶は初めから、妖狐には帰る気など端からないのだろうと踏んでいた。林檎のかじり取られた部分の果肉が褐色に変化しているのをみても、時の流れを感じることはあっても今更憤ることは何もない。それに、妖狐はもしかしたら眠っているのかもしれない。だとしたら、……今は夕刻、妖狐があの場所から動くのは、早くても明日の朝。
 火の色が大分弱まってきている。鍛冶は、炉の火力を調節し始めながら、些か無気力に口を開く。
「おおい、くらげの子。」
 やや間があって、
「……くらげじゃないもん。蔵馬だもん。」
 何とも子供染みた口調である。
 だが起きてはいるようだ。きく耳があるならと、鍛冶は続けていう。
「ほら、さっさと食っちまえよ。林檎サンが可哀想だろう?」
「厭だ。」
「何で。」
 蔵馬の答えは端的だった。
「だって。……食ったら、帰らなければならないじゃないか。」
 鍛冶にすれば予想通りである。動じてやる優しさもなくいい捨てる。
「帰ればいいじゃねえか。」
「……。」
 蔵馬が話題を避けるように壁側を向く。
 鍛冶は本日何度目かのため息を吐く。だが呆れていても仕方がない。すべての理由は、妖狐蔵馬の心の中に在る。
「何で帰りたくねえんだよ。」
 そういった鍛冶の口振りには、男親らしい優しさと大きさがある。しばらくすると、蔵馬は渋々だが、口を開いた。
「……ここに居たいから。」
「けどな、おまえは『居たいから居るー。』っていっていられる立場じゃねえだろう。」
「分かってる。でも……。」
「んー?」
「ここに居ると、落ち着く……。」
 蔵馬はいった。
「血をみて心を痛める顔が、スキだ。」
「……は?」
「おまえは、優しいから。」
「……。」
 鍛冶は複雑な心持ちできいていた。鍛冶の心境からすれば、それはあまりよい指摘とはいえなかった。蔵馬のことばが途切れるのを合図に、鍛冶は大袈裟にため息を吐く。
「俺は優しいか……。」
 寝台の上で、蔵馬の首が縦に動く。
「いつも優しいとは限らないんだぜ。」
「でも……。」
「でもでもって、おまえはどこ練り歩きたいんだよ。」
 鍛冶は寝台に向かった。梯子を上り切ったところで、林檎を蔵馬の右手ごと掴む。
「あ。」
 っという間である。鍛冶は四口でその林檎の四分の三を食い尽くした。つまり、蔵馬のタイムリミットを四分の一に減らした。
「ほれ。残り食ったら、帰れ。」
「……。」
 渋々である。蔵馬は林檎を両手で持って、大事そうに噛みついた。
「たらたらするなー。天気悪くなってきたから、帰れなくなるぞ。」
 と、そのことばに反応して、蔵馬が鍛冶の顔をぱっとみ上げる。そして、
「雨降ったら帰らなくていい?」
「蔵馬……!」
「……。」
「……ちゃいは?」
「……。」
「……。」
「……御免なさい。」
 鍛冶は蔵馬が林檎を食い終わるまで、梯子から下りなかった。猶予を与えるつもりがないことを身を以って示し、断固とした厳しい表情を崩さなかった。その代わり、食い終わるのをみ届けた後は、蔵馬の三角の耳の間に大きな右手を乗せて、わしわしと撫でながら「よし、いいこだ。」などといって褒めてやった。蔵馬がガキ扱いするなよといいたげな不満顔をしたが、それはみなかったことにした。

 約束だから、と、蔵馬は大人しく帰っていった。
 鍛冶の手には、食い残された林檎の芯の部分が残った。
「……。」
 鍛冶の心にも、複雑なモノが残った。
「……盗賊のくせに。」
 呟き、鍛冶は弱くなり始めた炉の火の中に、林檎の残りかすを投げ入れた。だが、「優しいとかいうなよ。」といったかどうかまでは、今となっては分からない────。



 そして結局。
「なあ、雨が降ってきた。もう少し居させろ。」
「まだ五分と経ってないんですけど……!」
「寒い……。寝る。」
「あのね……。(T_T)」


金魚の水槽

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