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酒場にて夜は更けて  a T a B a R


 ここは宿つきの酒場。街道に近い町に在り、夜ともなれば旅人たちが吊りランプの暖光に誘われ、集まる。ここでは孤独な者も寡黙な者も皆等しく賑やかに振舞う。店の者、隣合う者同士、笑顔を交わし、人恋しさを紛らわす。一時の安寧に触れ、ことばをはなす者としての幸せを思う──
 その酒場のカウンターに、一人の細身の男が座っている。男、と書いたが、店を広く占めるブースに座る者たちからは背中しかみえず、一見して男か女か判別つかない。それに、その「男」は身体全体を薄手の外套で覆い、頭の部分はフードのようにして、すっぽりと深く被っている。従って、顔がみえるのはカウンターの内側に居るバーテンダーだけになるが、ここは旅人が集まる酒場である、カウンターなどに一人で座っている状況からして、「男」と判断するほうが違和感がない。
 男は、たった今空いたばかりのグラスを指先で軽く押しやり、
「バーテンダー。」
 と呼んだ。
 赤紫の葡萄酒を、と頼む。前に飲んでいたものと同じ注文である。その証拠に、バーテンダーが下げようと手を伸ばした空のグラスは、内側が薄っすらとピンク色に染まっている。
 かしこまりました──と、バーテンダーが男の前を離れた、ときだった。
「よおお、にいさん。」
 景気のよい、……というより酔った勢いというべきか、背後のブースで飲んでいた旅人風情が近寄ってきた。年の頃は中年か、ややその手前か。男が振り返る間もなく、いきなり肩を抱き、生やし放題生やしたひげ面を、顔の側に近づけてくる。中年の旅人がいう。
「こんな時間に連れもいねえなんて寂しいじゃねえか。こっちきて、一緒に飲まねえか。なあ。」
「……。」
 男はしばらく答えなかった。唐突に誘われても、何とも答えようがない。
 驚いてことばを失っているのだろう、と旅人は楽観的に考えた。だから気にも病まず、軽い気持ちで外套に隠れた男の顔を覗き込んだ。そして、……今度は旅人のほうが驚いた。
 口笛を鳴らしたい気分だった。しかし、旅人がそれを寸でのところで飲み込んだのは、この男の特異な容姿を、他の客に知られないためだ。いわば、「独り占め」したい気分でもあった。
 旅人は急に優しい口調になった。
「なあにいさん。」
 呼びかけながら、これまた外套に隠れた右手を探り出し、カウンターの上に持ち上げて握った。男はそれでも無言であった。旅人は頬を寄せる。
 囁く。
「ここの宿に泊まってんのかい。」
「……。」
「ブースが厭なら、ここ(カウンター)でもいい。一緒に飲もうぜ、なあ。」
 カウンターの上、握った手を自らの手の上に乗せて挟み、撫でるように動かす……。これには流石の男も外套の下で不快な顔をした。しかし、
「でも……。」
 と男はいいかけた。静かに低いが、湿った夜気によく通りそうな声だった。続けて男がいう。
「知らない人と一緒に居たら、怒られるから。」
「は。」
 まるで生娘のようなものいいである。旅人は一瞬目を丸くした。怒られる、というからには、連れが居るのか。しかし、怒られる、というからには、相手は保護者か目上の何某かなのだろう。実際、この男は外見も声も若く、少年といっても通じそうな気配がした。少年か──心の中で呟き、旅人は唾を飲んだ。
 が、歪んだ夢もそこまでである。
 「おい。」とも「こら。」とも告げず、突如背後から旅人の襟首を掴む手があった。激しく怪力である、掴んだほうの片腕だけで、小柄ともいえない旅人を、足が着かない高さまで持ち上げた。そして、旅人の正面をくるりと自らの正面に向かせ、至近距離から酷く睨みを効かせた。旅人は酷く萎縮した。

「お待たせしました。」
 と、バーテンダーが赤紫の葡萄酒を置いたとき、男(蔵馬)の隣には別の男(黄泉)が座っていた。先の旅人の行方は……、物語の進行には関係ないので特に語らない。
「初対面の者に対し、おまえは乱暴なのだ。」
 と蔵馬はいった。内容はほとんど愚痴だが、口調は普段と変わらず淡々としている。
「己が非を認め、謝罪したのだ。もう少し優しく追い返してやればよいものを。」
 確かに、これをさかのぼること数行前、くだんの旅人の「すーいませーんでーした。」といった情けない謝罪がきこえた気はする……。黄泉は舌打ちをした。
「何が謝罪だ。ああいうのをな、世間では『下心』と呼ぶんだ。おまえの顔をみて、頭の中で何を想像していたか分かるか。」
 蔵馬は単純な発想で問い返した。
「何を想像していたのだ。」
「な、にをって……。」
 黄泉は赤面した。蔵馬は、黄泉は怒っているから顔が赤くなるのだ、と思った。この場合、当たってなくもないが、外れてなくもない。
「そんなことはどうだっていいだろう。」
 黄泉は蔵馬の問いかけを打ち消した。その顔を横目に、蔵馬は「おまえが先にきいたのではないか。」という顔をするが、
「何を想像していたかなど……。」
 分かるさ、と蔵馬がいった。
「だが、面白い挑戦ではないか。このオレを、『その手』の対象と考えるとは。」
「面白い挑戦だと。ああいうゲス野郎が趣味なのか。知らなかったぜ。」
「おまえはいつも怒っているのだな。」
 蔵馬はグラスをくちびるに当てた。赤紫の液体に濡れるくちびる。それが視界に入るのを黄泉は嫌った。カウンターに肘をつき、わざとらしく顔を背ける。
「俺は好きでここに居る訳じゃないぜ。連れが在ったほうが面倒がなくていいと、おまえがいうからついてきてやったんだ。」
 ぶつくさと独り吐いている男に、蔵馬も負けじと、
「……いつも怒っている連れより、優しい連れのほうがよい。」
 しかし口調は叱られた子供のいい訳のようである。黄泉が鼻で笑う。
「優しさが欲しいならな、甲を連れてくればよかったんだ。」
「……。」
 ことばを返さない蔵馬は、確かにその通りだな、と思った。
 だが、今から巣窟へ戻って取り替えて来る訳にもいくまい。ならば、ここで喧嘩していてもつまらない。葡萄酒を口に含み、蔵馬はこれ以上黄泉を刺激しないよう、会話の線を別の方向へずらした。
「あの男は優しいが、口から出ることばに心がない。放っておくと目が女の尻ばかり追いかけているしな。」
 淡々と、居ない男の性癖を扱き下ろすものである。
 呆れる半分、黄泉は同感と鼻を鳴らした。
 ところで、少し前に書いた、「連れが在ったほうが面倒がなくていい」。意味はいわずと知れた、「側に連れを置いていれば、酒場などで情報収集に当っていても、変に色目を使われたり、声をかけられる確率は下がり、必然、いつもなら次から次へといい寄ってくるのを、いちいち相手してやる面倒がなくて都合がよい」──である。これの出所は真、蔵馬であった。しかし、それを受けて黄泉を蔵馬の連れにと推したのは、実は甲である。黄泉は初め、甲の提案を拒絶した。蔵馬と二人、行動を共にするといった妄想と、「連れ」なることばに過剰に反応したためだ。そのときの黄泉の心には余裕がなかった。心の用意がない、間が持たない、会話が続かなければ、また蔵馬に失望されてしまう──そんな恐れが、黄泉につまらぬいい訳を口走らせた。
『大将と副将が同時に巣窟を空けるのはまずいんじゃ……。』
 いい終わらぬ内に、当の蔵馬がいった。
『まずくはないが。』
 一瞬の安堵。しかし、これには続きがあった。
『最近のおまえは、副将といっても名ばかりではないか。』
 更に、
『甲。おまえは当日、外出の予定はなかったな。』
 甲の返事を受けて、
『きいたか黄泉。甲は留守を守るといった。こやつなら、おまえが一人で残るより、余程安心だ。』
 駄目押しで、
『なあ、そうは思わぬか。』
(どうせ俺は頼りない男さ。)
 黄泉が酒をあおった。白磁器の酒入れから瑠璃のぐい飲みに澄んだ液体をちびりと垂らし、親指と中指で軽く持ち上げ、口元へ。今度は味わうように、ゆっくりと口中へ注ぐ。隣の男が呟く。いつもの色のない声で、
「おまえはいつでも清酒だな。」
 己のグラスを指先で撫でる。グラスの中で揺れる扇情的な色は、
「この町では葡萄酒が有名なのだ。一口でも、飲んでみる好奇心がおまえにはないのか。」
 黄泉が答える。ぐい飲みに残る水面にランプの灯の黄色を映し、
「いいだろう、外でくらい好きな酒を飲んだって。」
 余談になるが、ここ数年余り盗賊の世界でも景気が芳しくなく、巣窟の中で夜毎催される宴を酒盛りなどと景気のよい呼び名で呼びながら、実は安い濁り酒ばかり買い置いて飲んでいるという、懐寂しい実情がある。
 好きな酒か、と蔵馬がいう。そして、
「本当は大して好きでもないのだろう。」
 清酒を指していう。黄泉は答えない。蔵馬の指摘をあまり快く思っていない様子である。動揺ともいえない、複雑な表情をみせる。おまえこそ、と黄泉がいう。
「おまえこそ、本当は『こっち派』なんだろう。」
 これまた清酒を指して。人差し指の爪でぐい飲みを弾いて鳴らし、
「名物だか何だか知らないが、二杯目まで同じものを頼んで、無理して格好つけてるようにしかみえないぜ。」
「ほう。」
 感嘆の声。蔵馬がわざとらしく眉を上げる。
「当てずっぽうか。」
「莫迦いえ。」
「オレのことを、知っている風なことをいう。」
「……。」
 黄泉は、ぐい飲みに半分残っていた中身を一息にくいっと飲み干した。カウンターに置き、酒入れを摘み上げ、手酌する。
「……知っているさ。」
「……。」
「何年来の付き合いだと思ってるんだ。」
 しらっとした顔でいい、酒を飲む。黄泉の口調は自嘲気味に変わる。
「当然だろう。こっちは人生の大半を捧げる気合で、おまえについてきたんだ。おまえにとっては、俺なんか数在るの中の一ピースに過ぎないんだろうがな。」
「……。」
「……俺は、ずっとおまえをみてきた。」
 蔵馬は黄泉のことばにただ耳を傾けている。
 ゆらゆらと揺らすグラスの中に返すことばを探しながら、時々横目に黄泉を注視する。
 やがて、蔵馬が口を開く。やや間を置き、まずは隣の男の気持ちを害さないためにか、
「こういういいかたをすると、おまえは不快に思うかもしれんが……。」
 蔵馬はいう。
「同じだよ。おまえがオレをみてきた年数と同じだけ、オレもおまえをみている。」
「……ふん。」
 ぐい飲みを置き、黄泉は鼻を鳴らした。
「俺をみていると。」
「ああ。」
 訳もなく返事をしてみせる男に、
「よくいうぜ。」
 黄泉が独りごとで呟く。
「じゃあきくがな。」
「ん。」
「おまえが俺のことを、どれだけ知っているというんだ。」
 蔵馬はちらりと天井をみた。そして、
「酒の好み。」
「それはさっききいた。」
「ふむ。」
「それ以外でねえのかよ。」
 蔵馬はバーテンダーをみた。
「……ふ、む。」
「……ねえのかよっ。」
 蔵馬は再び黄泉に横目をやった。
「ある。」
「……例えば。」
 蔵馬は、今度は黄泉の居ないほうへ視線を外した。
「村の子等に『よみぞうさん』と呼ばれていること。」
「ぶ。」
「だって、例えばだろう。」
「まあ、例えばだが。……他には。」
「なんだ、意外と欲張りだな、黄泉は。」
「茶化すなよ。」
「ふふ。」
 軽く笑い──蔵馬は「そうだな。」と思案のポーズを取った。
「例えば……。町のやくざ者に難癖をつけられていた八百屋の娘を助けたこと。」
「な……。」
「頭を下げられると断り切れなくて、年頃の少年共を集めた道場で剣術を指南していること。」
「……。」
「峠を越えかけた山道で動けなくなっていた老婆を背負って、山を越え、目的地まで送り届けたこと。」
 あくまで淡々とした口調──黄泉が、如何にも体裁悪そうに顔色を変える。
「……んで。」
 と、黄泉は半分頭を抱えた。
「なんでそんなこと知ってるんだよ。」
 落ち込んでいる様子の黄泉をみて、蔵馬は慰めるように酒入れを取った。黄泉の持つぐい飲みに酌をする。
「そんなに気を落とすこともあるまい。」
「落ちてねえよ……。」
「おまえのそういうところ、好きだよ。」
「……。」

 ……蔵馬らしい、無意識の先制攻撃である。
 黄泉は「好き」ということばに激しく反応した。みるみる顔が赤くなる。頬の辺りの筋肉が硬直し、ぴくぴくと不規則に痙攣を始める。
 蔵馬は、黄泉の顔が赤くなるのは、己が怒らせているせいなのだと思った。恐らくこの男は、己に好意を伝えられることを好ましく思っていないのだろう、と。
 だから、黄泉が酒を口に含む間際、小さく「莫迦な。」と吐き捨てたことに対しても、特に感じ入るところはなく、冷静な理解と納得を以って受け入れることができた。
 無論、そのほとんどの「理解」と「納得」が、偏った思い込みから生まれた勘違いであるのだが、返す返すもその誤りを正す者がこの場に居ないことが残念でならない。
 黄泉はいった。
「そろそろ部屋へ上がるぞ。」
 返事は待たない。
 席を立った後は背中しかみせない。
 階上へと続く階段に向かい、歩き去るその背中を、蔵馬は視線でみ送った。
 ただ、ここにひとつだけ疑問が残る──
「なあ。きいてもいいか。」
「何だ。」
「おまえが先にチェックインしたとき、オレが一緒だと分かっているのに、なぜ同室にしたんだ。」
「金を浮かすためさ。」
「ふうん。」
「……。」
「それだけ。」
「ああ。」
「ふうん。」
「……。」
「……。」
「……こ、甲にはいうなよ。」
「なぜ。」
「なぜでもっ。」

 蛇足である。
「本当は大して好きでもないのだろう。」
 と蔵馬に指摘された清酒。実際のところ、黄泉は己の趣味としてこの酒を好んでいた訳ではないらしい。この時代、清酒を好んで飲用していたのは蔵馬である。よって、黄泉は単に蔵馬の真似をして、清酒を嗜んでいた節があるのだ。
 ただ、蔵馬が黄泉の心理をそこまで汲み取った上で、あのような指摘をしたとは考え難い。
 しかしながら、一番指摘されたくない相手から指摘され、且つ、完全な理解を得られていない状況を、複雑な感情で捉えながらも、誰に打ち明けることもできない哀れな男の現実には、多少の同情を傾けたくなったとしても罰は当るまい。

「ふうん。」


金魚の水槽

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