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No.
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アイ・ラブ・ヒム
I l o v e h i m
蔵馬は本を読む。胡坐の膝に長く巻物を広げ、背もたれにしているのは甲の背中である。
目は真剣に文字を追っている。だが、左手は一定の時間を置いてふわふわと動き、重い酒瓶から地面に置かれた杯に酒を注ぎ、酒で満たされたその杯を口元まで運ぶ様子が危なげにみえる。だから、甲は時折後ろを気にして、何かをいっている。恐らく、こんな会話が交わされているのだろう。
「俺が酌してやるか?」
「……ううん、いい。」
「……そか。」
蔵馬がいいというのだ、甲には何も手出しはできない。これは組織構造云々の問題ではないが。
蔵馬は独裁を嫌った。甲も同意見であるが、今は目にみえる範囲に仲間連中がいる。それも下の、もっといってしまえば、頭の悪い連中が多い。ここで蔵馬の命に叛く姿を、仮にみせたとする。今後の士気に関わらないと誰にいえよう?
つまるところ、やきもきはするが、この状況では余計な手を加えず、蔵馬の好きにさせて置くほうが賢明であるという判断である。
さて、この状況を同じくやきもきした心境で、しかもその心境が顔にまで表れている、実に正直な男がひとりいる。
黄泉の前には、酢漬けのオリーブの器があった。無論、酒もある。
隣に座すのは乙のようだ。オリーブを食っては、数メートル先に焚かれた火を的に、種を飛ばして暇を潰す。だから、黄泉は苛ついた態度で皿から一粒を摘まみ、
「おまえは下品だ。」
気分よく酔っている乙は、へらっと人懐っこい笑いをみせて、
「そりゃあ、黄泉くんの花に比べたら、下品でしょう。」
「……。」
花。即ち……。
この組では、蔵馬の噂をするときに、そう置き換えて呼ぶことがよくあった。話題は大抵色の絡むことが多く、その分黄泉に絡むことも多かった。だから、黄泉に対する配慮といえたが、蔵馬にとっては知らぬが仏。まあきこえたとしても、気づく可能性は、ないとはいえないが、薄いと踏んでいる。
花は、黄泉の視線の先で、杯を地面に置き、酒を注いでいた。こぼれる寸前に酒瓶の傾きがぴたりと止まる器用さ。しかし、書物に集中している蔵馬が、酒に視線をやることはなく、左手はやはりふわふわと、気配を探るように動き、杯に達するまでの、長いこと長いこと……。
黄泉は気が短かった。酒を飲み干す。そのまま蔵馬から視線を外し、乙の種を飛ばすのをみて「汚えっていってるだろう。」などといいながら乙の後頭部をぺしりと殴った。
だが。
……苛々するなら、みなければよいのだが、そうもいかない複雑な心理が、この男にはあるようだ。黄泉の目は、自ら気をつけていなければ、勝手に元の位置に固定されてしまう。
不意に、蔵馬が呟いた。
甲にではなかった。
「それ、うまいのか?」
口調は、呼びかけとは程遠い単調なものだった。余程慣れていなければ、それが自分に向けられているなどとは、到底思えないだろう。だが、その男が花に気を取られているなら、対応も早い。
「オリーブの酸いヤツだぜ。」
黄泉は、お声がかかった浮かれた内心を努力で隠し、同居していた不機嫌さだけを前面に押し出し体裁を繕う。素っ気なくいってみるが、蔵馬の胸に響くものはない。それに、黄泉の答えは蔵馬の求める答えにはなっていない。だから蔵馬はひとこと、
「ふうん……。」
「……。」
こちらの素っ気なさは、きく者の胸を寂しくさせる効果があるらしい。黄泉な密かに、俺はなぜいつもこんな対応をしてしまうのだろうかと、反省したいが、そんな暇は与えられない。
「それ。」
「……ん?」
「頂戴。」
「あ……。」
つまみが欲しい、ということか。それならば、……乙の下品な遊びにも厭気が差してきたところだ、断る理由はない。
「いいぜ。」
黄泉は諾の意を伝えた。だが。
それ以降の動きは何もなく、しばらくみていると、
「?」
蔵馬の左手が黄泉のほうに伸びる。そして、ひらひらと、動いている。本の世界に踏み込んだ蔵馬は、自分から動くつもりはないらしい。流石の蔵馬に弱い黄泉も、呆れてため息を吐いた。
「……持って来いってか?」
呟くが、声が小さ過ぎて本の世界の蔵馬にはきこえない。黄泉は再びため息を吐いて、甲と同じ理由から動かざるを得ない立場に在る自分を思った。舌打ちをして、重い腰を浮かす。
が、その腕を乙に捕まえられる。
「……んだよ?」
黄泉は今の不条理な不機嫌を乙にぶつける勢いでいった。乙は黄泉のそれには慣れている、特に動じることなく、黄泉に耳打ちの仕草をして、顔を近づける。そして、
「黄泉くんさ。」
「ん?」
「折角だから、一粒摘まんで、蔵馬の口に入れといで。」
「……え。」
乙の悪戯な囁きは続く。
「いいじゃん。来てやったついでだぜ?みたいな感じで。『あーんして?』っていったら蔵馬、絶対口開くから。」
「……。」
一瞬、黄泉の頭に乙の意図する情景が浮かぶ。
このときに、黄泉の頭に駆け巡った思考をすべて明かすには差し障りがあるので、黄泉が何かを思った末に、徐々に顔を赤らめていった、とだけ記しておくことにする……。
その沈黙を不信と思った蔵馬が、この度初めて顔を上げた。
「どうした?黄泉。」
真っ直ぐな視線は黄泉の目を捉え、黄泉の目に映る蔵馬は、
「ん?」
少し首を傾げた仕草がまた一段と、
「かわいい……。」(※注:乙の台詞である。)
黄泉は徐ろに立ち上がった。そして、
「そ、そ、そんなこといえねえっ!!」
「あ。黄泉が逃げたぞ。」←巣窟にいる誰か。
乙は地面を叩きながら爆笑していたが、笑い疲れて気を取り直すと、オリーブの器を持って蔵馬の前まで進んだ。その目の前にしゃがんで、
「はい。ご所望の品だぜ。」
人懐っこい笑みと共に、それを蔵馬に差し出した。
だが、
「ん?」
蔵馬は笑わなかった。
それどころか、乙のほうもみなかったし、オリーブも今はどうでもよかった。気になった甲が、後ろをちらりと覗く。
蔵馬の視線の先は、黄泉の走り去った方角を向いて止まっていた。
甲と乙が不思議そうに目を合わせる中、蔵馬はいつになく寂しげな口調でこういった。
「なあ。オレは黄泉にキラわれているのだろうか……?」
そのことばが届いた範囲の盗賊連中が、一斉に首を横に振る姿は圧巻であった。
金魚の水槽
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