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夏祭  k a s a i


 妖狐蔵馬は矢をつがえた。手のひらに収まる程度の小さな弓。片手に構え、指で引き金を引くタイプのものである。それを────
 一度胸の前へ。祈るように双眸を閉じ、心を静めた後は速やかな無駄のない動きで、弓を構えた腕を前方へと伸ばし、狙いを定める目は狩人となる。そして……、
「えいっ。」
 ぴっちん。と放たれた矢は、提灯の柔らかな光の中に弱々しい放物線を描き、景品のずらり並んだ棚の最前列にも届くことなく、陳腐で魅力的な玩具たちの淡く物悲しい視線を受けながら、床の上にかんからりんと転がり、
「はい外れ。」
 かくして小さな射的屋の一戦は幕を閉じた。
 太い手拭いを鉢巻きにした店のおやじが、にこにこしながら「惜しかったねえ。」といった。

 今宵、ふもとの町は祭りである。夏の夜空は真っ黒に晴れ渡り、細い路地の隅々に至るまでこれでもかとばかりに吊るされた提灯の光に、町は昼間のように活気づく。普段は貧しい民衆も、狭い町並みに押し込まれた縁日の露店を冷やかして歩きながら、笑顔を交わし合い、短い季節を心から楽しんでいる。
「もう一回やってみるかい、おにいさん。」
「……。」
 この町では「おかしらさん」と呼ばれ、皆に親しまれている蔵馬も、今宵はただの「おにいさん」となる。大した理由はない。「ふもとの町」という俗称しかないこの土地一帯が、「妖狐蔵馬」という世にも恐ろしい盗賊妖怪の縄張りである────という心ない噂が最近広く知れ渡るようになり、「おかしらさん」は何かと不便を被っているのである。今宵は祭り。方々(ほうぼう)から人が集まり、純粋に夏を楽しみにきた一般客も多かったが、「妖狐蔵馬」を倒して名を上げようとする、不穏な考えを持った間抜けな無鉄砲も中にはいた。ふもとの町にはそれを治める正式な長も実はいたが、民衆は「妖狐蔵馬」の名の下に、他の勢力から攻め入られることのない平穏な生活が保たれていることを知っていた。蔵馬自身に骨を埋める気がないにしろ、今この町から蔵馬にいなくなられては困るのだ。だから民衆は、蔵馬の存在をそれと知られないよう、守ることに努めた。端的にいうと、己が身のかわいいがために、蔵馬を守ろうとした。
 幸い、妖狐蔵馬は「世にも恐ろしい盗賊妖怪」ということになっているので、夜の町をふらふら出歩いていても、この細身のクール・フェイスが妖狐蔵馬とは、お釈迦様でも思うまい。
 さて、これまでのくだりをみての通り、妖狐蔵馬は今宵は町へと下りて、親しい数人の仲間を連れて、ふらり、ふらりと遊んでいるところが如何にも若者らしい。今は射的屋に足を止め、軽く遊んでみたものの、弓は蔵馬の得手ではない。一枚の銅貨で買った時間が矢・三本。すべての狙いが外れたことで、少し不満な顔になる。
 その蔵馬の肩に、甲が後ろからぐりんと腕を回す。
「おまえがしくじるなんて、珍しいこともあるもんだ。」
 からかうようにいうから、それもまた不満で、
「オレは手から離れる武器が苦手なんだ。」
 そして店のおやじには、
「こんな軽い矢では、当てろというほうが無理なのではないか?」
 蔵馬にしては珍しく、毒を吐く。
 店のおやじが豪快に笑う。
「上手い人がやれば、それなりに当たるもんだよ。」
「何だ、おまえはオレが下手だというか。」
 と蔵馬が涼やかに睨みつけるのを、
「下手だから当たらなかったんでしょ。」
 口論には発展しないと思うが、甲のにやけ顔が締め括る。すると、
「ん。」
 蔵馬が、手にしていた弓を甲の左胸に押しつける。(三本の矢を使い果たした弓だけを、である。今は肩を組まれていて、右手に持っている弓を目にみえる形で手渡そうとしたときに、たまたま甲の左側が空いていたのでそうなった。決して矢をつがえて甲の心臓を射抜こうとした訳ではない、と、分かると思うが一応書き足しておく。)
「おまえがやってみせろよ。」
 涼やかな睨みが、横目に、今度は甲をみ上げる。ことばの後はくちびるをニヤリと微笑ませ、片目を瞑ってみせる辺りは何か挑発というよりも、自分の出演しない余興を無責任に楽観できる、呪縛のない喜びのようなものが匂う。
「弓ならおまえの得手だろう?」
「ああダメダメダメ!」
 と、慌てて口を挟んだのは、なぜか店のおやじである。おやじ曰く、
「甲さんはダメだよ。うちの店を潰す気かい?おにいさん。」
 「万中」
 といえば、この土地では知らない者はいない。梟(ふくろう)の白羽の矢を使い、妖気を通わせずとも百メートル離れた的さえ軽く射抜くという。無論、妖気を通わせた矢ならばそれ以上────
 これは的までたった二メートル足らず。この射的。外せば河童の川流れどころではないが、幸い甲は河童ではない。
「甲さんに遊ばれた日にゃあ、うちは店仕舞いだよ。」
「何だよ、客を選ぶのか?」
 蔵馬の左肩に顎を乗せるようにして、甲が態とらしくくちびるを尖らせる。それを、蔵馬も面白がって、
「そうだぞ。オレの大切な部下を客から除外するなど、オレは到底納得できんぞ?」
「そんな殺生なあ……。」
 これだけのやり取りをきいていると、蔵馬も甲も、可哀想な店のおやじに理不尽な因縁をつけている若いやくざ者にみえるかもしれない。しかし、その顔はどちらも怒るどころか悪戯な若者らしい笑顔で、祭りという特殊な状況の下、「自分の町」の民衆との純粋な交流を楽しんでいる様子が窺える。店のおやじも、「参ったねえ。」と髪の毛の少ない頭に手をやりながら、オレンジ色の提灯の光に汗ばんだ頬をにこにこと光らせている。
 さて、ここで少しばかりはなしを戻すと、作者は先程、妖狐蔵馬は「親しい数人の仲間を連れて」と書いた。「数人」と書くからには、蔵馬には一人以上の連れがある筈だが、ここまでの段、連れらしい登場人物は甲以外にみ当たらない。しかし、連れとしての「数人」は確かに存在する。そして、無論ながらその「数人」の内には、例の一途者のあの男もいた。
 黄泉は、それまで蔵馬の一連の行動を、取り立てて感想もないらしい顔をして、控えた後ろから黙然とみていたが、舌打ちをすると、突然のそりと動き出す。
 歩く。蔵馬の横はすんなり通り越し、甲は相変わらず蔵馬の肩に馴れ馴れしく腕を巻きつけていたが、蔵馬はそれに対して厭がる様子をみせないし、この二人に友情以上の感情が芽生えることは万が一にも在り得ないと知っているから、怒ることも笑うこともない───的の前に立った。
 黄泉がいった。
「どれがほしいんだ。」
 並ぶ景品の隅々に目をやりながら……、それが誰に向かって発したことばなのか、蔵馬は一瞬読み取るのが遅れた。
 蔵馬の反応の鈍さに、黄泉が再度舌打ちをする。懐の銭袋から銅貨を一枚取り出し、店のおやじに投げて渡す。銅貨はおやじの恰幅のいい腹にバウンド、落ちそうになるところをおやじの両手が慌ててキャッチした。
 黄泉は首だけで蔵馬を振り返る。
「ん?」
 少し怒った顔になる。なぜ怒っているのか、その対象が自分であることは分かるのだが……。ついさっきまで、己の存在にはみ向きもしなかった男が、今、何を考え、行動するのか。黄泉の行動が、そこに存在する意図が、蔵馬にはみえない。
 尤も黄泉にしても、理屈屋の蔵馬を納得させられるだけの明確な意図はないらしい。蔵馬が射当てられなかった物を射当てて、実力をアピールしようと思った訳では当然なく、ただ何となく、俺がこうしてやれば蔵馬は少しは喜ぶのだろう、といった────元々単純な生き物なので、理由も至極単純になる。単純な上、本人は色事にはひどく真面目な男であるから、蔵馬を喜ばせて後でどうこう、といった男独特の野心など端から思いつく筈もなく、怒った顔も、元々そういう作りなのだから仕方がない。
 黄泉の眉間に刻まれた皺をみつめながら、だがしかし、オレが何かを答えなければ黄泉の眉間には更に深い皺が刻まれるのだろう、何はともあれそれはあまり芳しくないな、……思うから、蔵馬は腕を前に伸ばした。
 並ぶ景品のひとつを指し示す。それを目で確認し、黄泉は思わず呆れた声を発した。しかし、これも仕方がないことと擁護したい。殊にこの射的屋は子供の遊び場。子供が遊びで手に入れられる景品など、初めから高が知れている。
「何だよ、そんなモノがほしいのかよ。」
「そんなモノって……。」
 きかれたから素直に答えてやったものを。蔵馬は、顔には出さないが内心かちんときた。自分がほしいという物を、誰だって無闇やたらと否定されては腹が立つ。それに、オレは果たして黄泉に莫迦にされる程度のつまらない男なのか。軽々しく答えた己自身にも腹が立つ。黄泉は既に的に向き直っている。最後にもう一度舌打ちをしたのかもしれない。だが────
「……。」
 店のおやじから三本の矢を受け取る、そのときちらりと覗いた横顔の、真剣な表情をみていると。矢をつがえ、狙いを計る冷静な背中をみていると……。
 冷静になれた。
 これは期待でも何でもなく、
「取ってくれるのかな……。」
 呟いたことばに答える者はいない。甲は蔵馬を離れ、今は黄泉の横にぴたりとつけ、その肩に手を乗せる。
「その矢、軽いからちょい角度高めがいいよ。」
「ああ。」
 助言する甲に、店のおやじが密談のように囁く。
「甲さん。副将さんは弓の腕、どうなんだい。」
「未知数だねえ。」
 と答えた甲は、意味ありげににやっと歯をみせる。
「取ってくれるのかな……。」
 今度は心の中で呟き、蔵馬は、もしも黄泉が目当ての物を射当てたなら、そして、もしも黄泉がオレのために目当ての物を射当てたとしたなら。オレは素直にありがとうといおう、と心に誓った。
「倒れなくてもいいんだろう。」
「当たればオッケイだよ。」
 そして運命の矢は放たれた。

「はいおめでとさん。」
 店のおやじから景品を受け取り、黄泉はその足で蔵馬の元へと歩み寄った。
「ん。」
 手の中の物を蔵馬の胸に押しつける。「ほら。」とも「受け取れ。」ともいわない。そのまま黄泉が手を離すので、蔵馬は咄嗟に手をやり、落下しないようそれを支えた。が、
「あ……。」
 その僅かな隙に、黄泉は蔵馬に背を向けてしまった。礼をいう暇すらない。黄泉は蔵馬の予測される次のことばを避けるようにその場を離れ、近くで物ほしそうに射的屋の景品棚をみていた素朴な顔をした子等に、残りの二本の矢をくれてやった。
「ありがとうよみぞうさん。」
「よみぞうさんって呼ぶなっ。」
 黄泉が大股に歩いていく。ずんずんと、その背中に自らの意思で止まる気配はない。
 黄泉が行ってしまう。オレはありがとう、といわなければ。何だか分からないが黄泉は怒っている(ように蔵馬にはみえる)し、オレが射当てようとした物は、本当はオレだって陳腐で下らない代物だと思っていたのだ。それを、黄泉に金を使わせてまで手に入れて、礼もいわずに終わるでは、あまりにアンフェアではないか────蔵馬は慌てて黄泉を呼び止めた。しかし、何分(なにぶん)慌てていたので、
「よみぞー。(……あ。)」
「……んだよ。」
 幸いなことは、黄泉は思いの外素直に立ち止まった。(まさか蔵馬にまでよみぞう呼ばわりされるとは思っていない。)何はともあれ好都合である。
 蔵馬はいった。
「ありがとう。」
 少しだけ笑顔になる。おまえはやはり頼りになる男だ。その力量を改めて誇りに思う気持ちが、穏やかな表情となって現れる。
「……。」
 黄泉は蔵馬の目をじっとみつめた。熱っぽくみつめ、何かいいたげな顔をする。
 蔵馬は、黄泉の口からは「大したことはしていない。」とか、「それ程でもない。」とか、兎に角「礼に対するそれなりの返答」が返るものだろうと期待した。或いは、期待し過ぎたのかもしれない。黄泉が事の発端に「少しは喜ぶのだろう」とみ込んだ通り、今の蔵馬は気分がよかった。蔵馬の黄泉に対する印象は、明らかに好転していた。
 だが、そんな期待は脆くも崩れ去る。……いつもそうだ。この男に何かを期待するだけ、己は結局莫迦なのだ。黄泉が、蔵馬(おまえ)の視線には耐え切れない、とばかりに下を向いた瞬間、蔵馬はひどく後悔した。黄泉には今まで何度となく失望させられ続けてきたが、先の期待があった分、それが反動となり、今度ばかりは怒りも寂しさも通り越し、取りあえず今この男を殺すか、自分が死ぬか、どちらかを選ばなければただでは死ねない、と思い詰めるくらい、後悔した。
 黄泉は頬を赤らめ、地面に向かって呟いた。
「……そんなんじゃねえよ。」
 じゃあどんなんなんだ?
 心が一枚の白い紙でできているとしたら、右上から左下まで、その尽くを書き潰す程に────


金魚の水槽

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