Date
2 0 0 4 - 0 7 - 1 1
No.
0 0-
瞼の父母は
m e m o r i e s
「やあい、やあい。」
「おまえのトーチャンでーべーそー。」
「……ちがうもん。」
「おまえのトーチャン、ヒモなんだぞ。ヒモって分かるか。」
ヒモみたいに細長いってことか。
「ちがうもん。」
「ちがわないやい。おまえのカーチャンが金持ちだからケッコンしたんだぞ。金目当てで女と一緒になる男はヒモっていうんだって、ウチのカーチャンがいってたぞ。」
「ちがうもん。」
「うるさい。」
と、ガキ大将が小さな耶稚の肩を小突いた。よろめいてぺたんと尻餅をつくのを、取り巻きのいじめっ子たちが笑う。……自分がなぜこんな目に遭わなければならないのか。不条理さに、耶稚の小さな胸はじんじん痛んだ。不条理なのに、笑われるのも何だか恥ずかしいことのように思えてきて、丸い頬っぺたが林檎のように赤くなる。
「おまえのトーチャンが出稼ぎに行ってるのだって、恥ずかしくてこの村に居られなくなったからなんだぞ。」
「そうだぞ。ウチのカーチャンもいってたぞ。おまえのトーチャンな、偉い刀匠の先生に破門になったんだ。それで、この村では鍛冶屋ができなくなったんだ。」
「やあい、破門職人の子。」
「ちがうもん。」
「ちがわない。」
「ちがうもん。」
耶稚は勢いよく立ち上がって、ガキ代将に向かって突進した。両手を使って、ガキ代将の胸を思いっ切り突き飛ばす。思わぬ反撃に、ガキ代将もぺたんと尻餅をついた。
「やったなー。」
じりっと立ち上がったガキ代将は、興奮してぜいぜいいっている耶稚の胸倉を掴んで、頬にぺぺんと食らわせた。着物の前を掴み上げられては、小さな耶稚は地面に足がつかないし、ふらふらして苦しい。耶稚は空いている両手をばたばたさせて抵抗した。その内、どちらかの手が偶然、ガキ代将の頬っぺたを打った。よし、これで貸し借りなしだ。……と思ったら、
「このやろー。」
「チビのくせに生意気なんだよ。」
近くを通りかかったおばさんが止めに入らなかったら、一対三で、ボコボコにされていたかもしれない。もちろん、子供同士の喧嘩だから、ぽこぽこくらいで済んでいたかもしれないが、やはり痛いことには変わりない。耶稚は埃だらけになった着物を着乱したまま、草履の両足をずるずる引き摺って歩いた。俯いた目には、家に向かって歩く自分の足が映るだけ。膝小僧を擦り剥き、腕にも脚にも擦り傷がいっぱい。頬は張られた場所がいつまでもひりひり痛む。だが一番痛いのは……。
自分がいじめられるのはいい、と耶稚は思う。いいわけないが、自分のことだから、きっと自分が悪いんだから、多分いい。しかし、トーチャンが悪くいわれるのはなぜだろう。小さな胸が、「思い」でいっぱいになって重い。
ずるずる歩く。ぺたぺた歩く。ゆっくり、ゆっくり。徐々に遅くなる。
耶稚は、何だかこのまま家に着かないほうがいい、と思えてくる。帰っちゃいけない、とも、思えてくる。家に帰ればトーチャンが居る。このまま家に帰って、トーチャンと顔を合わせるのは、幼い耶稚には悪いことのような気がするのだ。
耶稚はトーチャンが好きだった。そのトーチャンに、自分がいじめられていると知られるのは恥ずかしい。しかもいじめられる口実が「トーチャン」だと知ったら、トーチャンは何ていうだろう。
大好きなトーチャン。……耶稚くんのこと、キライになったりして。耶稚くんがいじめられるのは、やっぱり耶稚くんが弱いからで、トーチャンは強い男だから、弱い耶稚くんのことは、きっと悪い子だっていう。いじめられる耶稚くんは、悪い子なんだ。
林の小道の真ん中で、耶稚の足はすっかり止まってしまった。もう少し行けば家、というところ。しかし、動かそうとしても、ちっとも足が動かない。頑張っても頑張っても動かないから、じわじわ涙が溢れてきた。
真っ赤な頬っぺたを、熱い涙が伝う。乾いた地面をぽつぽつ濡らす。泣くのは弱い子だ。男の子は泣いたら駄目だって、トーチャンに叱られる。だが、駄目だと思えば思う程、涙が溢れて止まらない。
そして、……耶稚は何となく結論が出た気がした。このまま消えてしまいたい。そうだ、消えてしまおう。
耶稚くんは家に帰っちゃいけない子なんだ。だって、トーチャンを悪くいうヤツらをやっつけられないで、逃げて帰ってきた情けない弱虫だもん。弱虫は、トーチャンに嫌われる。嫌われるの、辛いし、嫌われるくらいなら、どこかへ行こう。……どこへ行けばいいかなんて分からないけど。ああ、これからはたったヒトリで生きていくのか。辛いなあ。寂しいなあ。でも、悪い子だから仕方がないのかなあ。
耶稚は着物の袖でぐいっと涙を拭った。ついでに鼻もずずっとやった。そして、くるっと後ろを向いて、また草履の両足をずるずる引き摺って歩き始めたのだが。
不意に家の方角。自分を呼ぶ声がする。
「おおい、耶稚くーん。」
「……。」
どうしよう。耶稚は幼い頭で一生懸命考えようとしたが、それ以前に色々考えながらようやくここまで辿り着いたのだから、この先どうしようにも、実はどうしようもなかった。
小さな背中をみせたまま、子はとぼとぼと元来た道を引き返していく。それを、「耶稚くん。」、「耶稚くん。」と、父の声が追いかける。追いかけられるから、耶稚の「ずるずるぺたん」も、次第に速くなっていく。とぼとぼも「すたすた」になって、駆け足になる。それでも父は追いかける。今度は声ではなく、
「こら、待ちなさいよ、耶稚くんは。」
どしどしと走ってくる。世の中には、子の変化に鈍い男親も多いというが、父はそのような男ではなかったようだ。思えば父は、人情が厚く、馬鹿がつく程正直者だったが、世間の風潮に逆らっても己の真を貫いて生きた、後にも先にも、これ程尊敬できる男は居ないと思う。
「……。」
……追いつかれる。堪忍したのか、耶稚は足を止めた。ぺたん、ぺたんと減速して、だが振り向くことはできなかった。そこへ、大きな身体をゆさゆさ揺らして、父が追いついた。
「走るの速くなったな。おまえは。」
はあはあいって、子に疲れてみせる辺りはわざとらしいが、父は、
「ほら。家はこっちでしょ。父と一緒に帰ろ。」
小さな背中をつんつん突ついて、何とか振り向かせようと試みる。「肩車しちゃるよ。」と、子の心理を揺さぶったりもする。だが、
「……。」
子はじっと俯いたまま動かない。すると、父の大きな両手が子の両脇を挟んで、軽く持ち上げ、くるっと表に向かせてしまった。
父は、子の様子をそれとなく観察した。子は相変わらず俯いたまま、父の目をみようとしない。普段から丸い頬っぺたは、普段に増してぷっくり腫れていて、肌のみえている部分には小さな傷がいっぱいあった。何だか着物も髪の毛も土っぽかった。取っ組み合いをして帰ってきたのか、父は一見して判断した。「負けて」、帰ってきたな。……子供の喧嘩とはかわいいものだ。父は、腹の中がむずむずとおかしい気持ちになったが、子の前では笑うまいと、堪えた。
父の大きな手が上に持ち上がった。
げんこつされる。子は反射的に首を竦めた。しかし、振ってきたのはげんこつではなかった。
「ほら。帰るぞ。」
父は、子の頭をわしわしと撫でる。大きな手は頭をすっぽりと包み、首が取れそうなくらい乱暴な撫でかたでも、暖かくて、いつまでもそうされていたい。
トーチャンは優しい。
でも耶稚くんは悪い子だから。
でも耶稚くんは悪い子だから。
「……。」
返事のしかたが分からなくて、小さな胸はきりきりと絞めつけられた。その内、……心のどこかで、細い糸がぷちんと切れる音がした。
緊張が安堵に変わるときのスイッチの音。そう理解した途端、
「わあー。」
耶稚は叫んだ。
「わあーん。トーチャン。」
泣きながら、父の片方の脚にしがみついた。わあわあいいながら必死に取りついて、涙も鼻水も父の着物に擦りつけて泣いた。
「わあーん。わあーん。」
「おやおや、どうしたの。」
父は慌てもせずに、どうしたどうしたといって子の頭を撫で続けた。なぜ泣いているときかれても、答えられることばなどなく、子はただただ泣き続けた。父は身体を屈め、太い腕に子の尻を乗せて抱き上げた。赤子にしてやるように、よしよしと身体を揺さぶると、子は今度は首にしがみついた。ぐしぐししゃくり上げる声を耳に感じながら、子が落ち着くまで、
「よしよし。」
何度も何度も身体を揺する。そうしているところへ、
「あらあら、どうなさったんですか。」
脇道から母が現れた。どうなさった、ときく割には、元々そういう気性なのか、落ち着き払った様子。細い両手で大きな米俵をうんしょとぶら下げて、よたよたと歩いてくる様が実に危なっかしい。
父は子の背中をぽんぽん叩きながら、妻のほうを向いた。そして、驚いた。
「何持ってきたの、おまえは……。」
「ご近所さんからお米、いただいたの。」
それはみれば分かるが。父の眉が曇る。
「そういう重いもんは、俺が運ぶんだから、いいなさいよ。」
「あら、これくらい私にだって運べます。あなたがいらっしゃらないときは、ぜーんぶ、私がやっているんですから。」
少しだけ自慢の色をつけて。母は父に褒めてほしいとき、よくそういういいかたを遣った。だが、普段は母に弱い父も、このときは母のいい分を許さなかった。
「今は居るんだから、少しは頼りにしなさいっていってるの。」
すると、母も誇り高い女で、「厭よ。」と、つんと跳ね返す。
「近頃は女だって男並みに働くものです。男は……、すぐに女を弱い者扱いして、馬鹿にします。」
父曰く、母は昔から自立心の強い革新的な女だった。父は苦笑して、母に歩み寄った。その間も、首にしがみついた子の背中を暖かい手で擦り続けることを忘れなかった。子もその頃にはすっかり安心していて、ぐしぐしと泣きじゃくる声も、幾分落ち着きを取り戻していた。
「ほら、貸しなさいよ。」
といって、妻の手から米俵を取り上げる。ひょいと肩に担ぎ上げるから、確かに母の「よたよた」に比べれば、幾分どころではない安心感がある。父の有無をいわせぬ行動を、母は不満顔で睨み上げるが、この顔もどうやら本心ではないようだ。その証拠に、思いの外素直に米俵を渡した後は、
「耶稚はこっちにいらっしゃい。」
何を泣いているの、と、夫の首に取りついた子を上手に引き剥がして自らの腕に抱いた。子は、母の首にもしがみついた。そして、
「帰るよー。」
大きな米俵を担いだ父が、一度母と子を向いてから、先に立って家路を歩き始める。母と子は、父に従って歩き始める。
父の大きな背中がゆっさ、ゆっさと歩いていく。数歩下がったところを母は歩く。
耶稚は、幼い目に父の背中を映した。そのひたむきな目を、母はいとおしくみ守っていた。
母がいう。
「父様は強いわねえ。」
「……。」
「父様は頼もしいわねえ。」
「……。」
小さな声で子に囁くのを、きこえたのか、先を行く父の首が少しだけこちらを向いて、様子を覗った。それを、母は先の口論の影響もあり、強がりでべべっと舌を出して追い払うのだった。父は首を傾げて前を向いた。
しかし、その直後でも、結局、
「父様は強いわねえ。」
「……。」
「父様は頼もしいわねえ。」
「……。」
何度も何度も、うれしそうにいうものである。
幼い耶稚には不思議だった。父と母は、いつも意見が噛み合わないようで、一見相性が悪いようにみえるのに、なぜかいつまでも仲がよかった。
父は、本当に金目当てでケッコンしたのだろうか。面と向かってそういわれれば、幼子ならいわれたままに思い込んでしまいがちだが、毎日……は父は居ないが、それでも日々の父と母の姿をみていれば。耶稚には、父が悪い男には思えないのだった。
「カーサマ。」
そっと、耶稚はきいてみた。母の耳に小さく囁く。
「トーチャンのこと好き?」
すると、母は「まあ。」といった。「フフ。」と笑った。小さな耶稚の頬に柔らかな頬を擦り寄せる。
「私が父様のことを好きじゃなかったら。」
そういって、母は私を抱いたまま、踊るようにくるくると回った。
「あなたは今ここには居ないのよ。」
私は後にも先にも、これ程幸福な笑顔をみたことがない。
子が何を語らずとも────
母は子がいじめっ子にいじめられていることを知っていたのだ。その理由が、出稼ぎに行って普段は家に居ない、身分の違う父(母にとっては夫)のことだということも、恐らく知っていたのだろう。
だが母は、父にも、子にも、淡く匂わせてでもそれを口にすることはなかった。
母には自信があったのだ。鍛冶屋の多い土地で一職人に甘んじず、鍛冶屋がない不便を困っている人々のためにあえて遠い地を選んで働く夫の信念もそうだし、身分が違っても互いを信頼し、愛し合える夫婦の絆もそうだ。
子にはすべてみえている。母は一途に父を愛し、父も一途に母を愛し、それが私の原点となった。
あの日の父の背中を、母の笑顔を、一生忘れることはないのだろう。
金魚の水槽
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