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2 0 0 3 - 1 0 - 2 5
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蚊帳の外
なにもないはなし
夏も傾きかけたある昼下がり、鍛冶と妖狐は泉のほとりに居た。鍛冶の作業小屋の裏手にある、あの清水の湧き出る泉である。
勝手口の脇に野晒しにしてあった朽ち欠けた長椅子(ベンチ)を水辺の縁まで移動させ、白い光をさんさんと反射させる水面に向かって、ふたりは座った。草むらから響く虫の歌も、秋の音色に変わりつつある。この時刻ではまだ日は高いが、時折吹く風は涼やかに肌を撫で行き、過ごし易い季節への遷移を感じさせる。
妖狐は厨から大きなたらいを持ち出し、冷たい泉の水を汲んでそこに両足を浸した。何を思うでもなく、履物を脱いだ素足を水に泳がすその横顔を……。
妖狐の左に座った鍛冶は、この夏久しぶりに顔をみせた妖狐の白い横顔をしげしげと眺めた。ここに現れなかった間に、何も心配事はなかったのか、面倒な問題もなく達者に暮らしていたのか、……そんなことを考えながら気が済むまで眺めてみたのだが、表情に乏しい妖狐の面には、鍛冶を安心させるようなことばは何も書かれていなかった。
ふたりの手には、削り氷の入った瑠璃椀があった。削り氷には薄く黄金がかった蜜がかけられ、晩夏の日差しにきらきらと輝くそれはまるで宝石のようであった。そしてまさに、夏の天然氷とは宝石と同等の価値を持つ。
春が終盤に差しかかった辺りから、それまでは鍛冶の生活を気が済むまで邪魔し尽くしてきた妖狐蔵馬からの音信がぱたりと止み、流石の鍛冶も安否を気にし始めた矢先だった。妖狐は突然現れ、鍛冶が何を問うよりもまずよいものを貰ったのだとだけいい、鍛冶に晒し布に厳重に包まれた氷の塊を手渡した。どうやら手土産らしい。鍛冶は受け取ったそれを開きながら、そいつは悪いな、と、この男らしい不器用な礼を述べ、本当は今まで一体どこで何をしていたのかと質したかったが、上手いタイミングを逃していた。
盆が過ぎた頃には客足がめっきりと減った。鍛冶も長い休息を取ることが多くなり、折角だから氷でも食いながら涼を仰ごうではないか、ということになった。
微風に木漏れ日がさらさらと揺れる、そんな午後だった。
妖狐は削り氷の雪解けのようになったものを匙で掻き回し、一匙一匙を大事そうに口に運んでいた。蜜氷の、しゃりり崩れる涼しげな音を耳にしながら、鍛冶も椀の中身をざっくりと口に運んだ。
「……しばらく振りだな。」
と鍛冶はいった。この場に座ってから、かなりの時間が経過していた。
「うん。」
とだけ、妖狐は答えた。口の中の氷を舌の上で丁寧に融かしながら、もう一度「うん。」という。
「元気だったか?」
「ん。」
「相変わらず白いな、冷夏の影響か。」
「ん……。」
「ちゃんと食ってるのか?」
「ん。」
鍛冶の投げかける安否の気遣いは、己への詮議を好まぬ妖狐にとっては、逐一答えてやる気の起こらぬ退屈なものだった。しかし、妖狐はそれに対して、「何だよ、鍛冶屋はオレが嫌いなんじゃなかったのか?」とはいわなかった。邪魔だった置物を退かしてしまったときの愛着の遠ざかった寂しさを感じているのだろう、とも思わなかったが、鍛冶のそれらしい人様(ひとざま)に触れるのは、何だか求めていた愛着にめぐり合えた感じがして、心が和んだ。
そのせいだろうか、妖狐は時折、鍛冶が横目に映るように下からみ上げ、鍛冶に気づかれぬように、薄いくちびるの端にさり気ない笑みを漏らした。
「ちゃんと食ってるよ。」
「そうか?何かその割には……。」
いいかけ、鍛冶はことばに詰まった。詰まった、というよりは、出てくる筈のことばが口の中で躊躇している感じだ。妖狐蔵馬について、何を詳しく知ったところで、……詳しく知った上で何を憂えたところで、己がどうこうする道理はないし、それを行う立場でもない。何だか、自分のいっていることへのおかしさを感じる。
次のことばはなかなか発せられない。蔵馬は、特に不思議がりもせずに、もう一度鍛冶を横目にみ上げた。よいタイミングか、悪いタイミングか、鍛冶も丁度下向きに、相手の顔色を覗っていた。鍛冶は、相手の目に己の面が映っているのを確認した刹那に、慌てて、というべき素早さで、自ら視線を逸らした。
鍛冶屋は黙然と氷を食う。
「……。」
「……。」
すると、何を思ったのだろう、蔵馬は長椅子の上に削り氷の椀を置き、左腕を前に出して力こぶを作ってみせた。
「みて。」
といって、いつになく少年らしい軽やかな笑みをみせる蔵馬は、どうやら健康体をアピールしたいらしい。その二の腕には、なるほどぷっくりと丘ができているが、元々細く生白い妖狐の腕では、みせられても差し当たって頼もしい代物ではなかった。
「どれ?」
ということばと共に、鍛冶も椀を置き、差し出された妖狐の腕を左手で支え、右の指先でその申し訳程度に盛り上がった力こぶをぐいっと押してみた。
「……っい!!!」
「あ。」
相手はこうみえても百戦錬磨の盗賊だからと、高を読むことなく力一杯押してしまったが、若い筋肉はぐなっと柔らかく、妖狐は慌てて左腕を引っ込め、両腕を抱くようにしながら肩を震わせた。鍛冶も慌てて、
「す、済まん。」
しばらくしてから、妖狐は再び椀を手に取り、氷の融けた水を静かに啜った。
「馬鹿力だな、鍛冶屋は……。」
鍛冶はもう一度済まんといい、その後にまた口の中で何かを呟いたようだったが、確かな形にする前に、妖狐と同様椀に口をつけ、甘く冷たい水と一緒にそれを喉の奥に流し込んだ。
そして、
「……忙しかったのか?」
と鍛冶はいった。ようやく、といえる時間が経過していた。
「色々と。」
そう答えた蔵馬は……。
……刹那、蔵馬の口元には明らかな微笑が浮かび、それを発見した鍛冶は、危うくしかめそうになった表情を隠すように、再度ゆっくりと椀の水を啜った。
前会話で、互いに指し示した内容は「蔵馬の」「仕事」について。それを話題にするとしたら、実は鍛冶は、ここ一月以前の蔵馬の動きをきき知っていることになる。
客商売をしていれば、誰でも噂の終着点となり得た。殊に魔界の鍛冶屋は、行きずりの縁が多く生まれる場所。そして、世界は意外に狭い。
鍛冶屋を訪れる旅人は、孤独な道中の一時(ひととき)の慰みか、人当たりのよい鍛冶に、それまでにみ知った色々な出来事をはなしてきかせた。それは専ら他愛もない世間ばなしに終始するのだが、中でもなぜか北方から山を下ってきた者などは、何の接点があるわけでもないのに、皆口を揃えて、やれどこぞの領主の城が破られただの、やれ山道で賊と鉢合わせた夜警の一団が運の悪い死に目をみただの、尽くが何かしら不穏な情報を溢して去った。しかも、そのすべてが「恐ろしく統率された盗賊師団」の仕業であるというのだから、それが誰の所業か……、鍛冶が俄かに想像を拒絶した心境は同情に値する。
故に、鍛冶は沈黙した。
沈黙が意味するもの。蔵馬の心には今、鍛冶の心の内が流れ込んでいる。春の小川のように、流れは清らかだが、季節外れの水は、手を伸べると刺さる程に痛い……。
やがて蔵馬は、長く深いため息を吐いた。煙草の煙を吐くときの、鍛冶のそれに似ていた。
「争いは嫌いだ。」
「……。」
しばらくの間、鍛冶は何も答えなかった。ただ、目の前で日の光を照り返す泉の水面をみつめ、氷水に喉を潤す。
「嫌いか……。」
鍛冶は呟く。
「それでも闘うんだろう?」
妖狐は、残り少なくなった氷の椀を膝の上に置き、匙に手を添えた姿勢のまま、前をみつめた。
「闘いではない。……争いは、嫌いだ。」
「……。」
虚空に向けられた妖狐の目に、泉の水を啄ばみに下りていた小鳥が二羽、羽ばたき去る姿が映って消えた。睦まじく寄り添い飛び行く二羽は夫婦であろうか────
「人死(ひとじに)をみるのも嫌いだ。憎しみ合うのも嫌いだ。」
静かな語り口から生まれることば。蔵馬が、時折線を失ったように漏らす生きたことばに、鍛冶は耳を傾ける。風が吹き、落葉(らくよう)が一枚、くるくると円を描きながら下りてくる。
「何者も、憎しみを持たずに生きることは出来ぬのだろうか。」
「……。」
……鍛冶には、蔵馬の語り示す意味が分からなかった。前会話との脈絡は、皆無である。
何を指すのか。誰を指すのか。明確に示されないまま答えを待つ鍛冶は、ことばを接ぐ蔵馬を、不思議に落ち着き払った横顔を、ただ眺める。
「情愛を知る生き物は怖い。己の親や子を殺されないために、敵の親や子を殺すのだ。……相手が同じ気持ちでいることにも気づかずに。」
「……。」
「オレには親や子は居ないから分からないが……。」
「……。」
「『愛する人』と置き換えれば、或いは分かるかもしれん。」
瑠璃椀に付着した玉の雫が、その表面をつるりと伝って、蔵馬の白い手を濡らした。雫の乗った指を無意識にくちびるにやり、蔵馬は再び匙を使い始める。
鍛冶も氷を食う。椀の残りは、みぞれのようになった水だけだ。
初秋を運ぶ風が、夏の余韻を惜しむ水面を揺らす。
蔵馬は、「オレたちのしていたことは、正確には逃げ回っていただけだ。」、とはいわなかった。
噂の流れる速度は思慮の内。もちろん、それをきいた鍛冶が何を連想するのかも。予想外だったのは「大きさ」だけ。元来噂などというものは、真実が少ない程よく伝わるように出来ている。
戦闘が行われたのは、当初の計画から外れた区域だった。何某の領主の城は、蔵馬の部隊が到着したときには既に破られた後だった。内部の犯行らしい。原因は権力抗争か、愛憎劇か、そんなことはどうでもよい。何らかの抗争があることは、蔵馬の耳にも入っていた。本当なら、混乱に乗じてことを運ぶ、……その筈だった。
一度領主の土地に踏み込んでしまうと、外部からの闖入者は、どちら側の勢力からも敵とみなされた。しかも性質の悪いことに、平常なら深追いされても城壁の外までがせいぜいというところが、興奮し切った兵隊は、相手の首と胴体が離れた様をみなければ気が済まないらしかった。外門を抜けて、林の内に身を隠したはよいが、四方八方から血眼になって探されれば、自らの戦闘能力にかけて切り崩すしかあるまい。……蔵馬とて、己の部隊(仲間)が大切なのだ。
よって、夜警らしき者共を一律死に追いやったのは、真(まこと)蔵馬の所業に相違ないが、鉢合わせになったのはむしろこちらのほうで、噂がどういう形で伝わっているのかは知らないが、闇夜の戦闘ではこちらも無傷というわけにはいかない。
死傷者を出す。組織の長として、これ程の汚点はない。
……が、それを今隣に座る、人のよい男に説明したところで、何を理解されようか。例えされたところで、この男の口から同情よりも安っぽい台詞が吐かれるとしたら────
己は、この男に失望したくないのだ。
蔵馬は椀に口をつけた。椀を逆さにし、底をとんとんと叩いて、溶け残った氷を最後の一滴まで飲み干す。
その忙しない様子をみて、鍛冶は意外そうな顔をみせ、こういった。
「帰るのか?」
「ん。」
「ああ……、早いな?」
「ん?」
「泊っていかないのか?」
「ん。」
「そうか。」
「鍛冶屋。」
「え?」
「呼ばれてる。」
「?」
そのとき、作業小屋の内を突き抜け、入り口から何者かの叫んでいる声が、鍛冶の耳に届いた。
「御免くださーい!!鍛冶屋さーん!!?」
客である。少し、休息を取り過ぎたようだ。
「あいよおお!!」
鍛冶も大声で返答し、氷がみぞれになった瑠璃椀を威勢よく長椅子の上に置くと、ひとり小屋の内へと戻っていった。
長椅子の上に、ふたつの瑠璃椀がある。
ひとつは氷河が水になり、ひとつは中がからからに日乾されている。
小道を振り返った男は、
「……ま、あれだけでかい声が出せれば、心配なかろうな。」
踵を返し、森へと消えた。どこに隠していたのか、口元には安らかな笑みを浮かべて。
金魚の水槽
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