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Lesson


 その日もオレは桑原くんの家に居た。
 彼の部屋。テーブルの上にはモカ・コーヒー。
 同じテーブルの上にクロスワード・パズルを広げ、その隣で、彼が黙々と問題集を解いている。
 いつもの光景だ。取り立てていうべきことはない──と、初めは思っていた。
 タテの24は四字熟語。楽勝とペンを走らせながら、実は気になることがある。
 モカ・コーヒーの湯気の向こう。
 時々、頬の辺りに視線を感じる。
 それも一秒、二秒。意味のない瞬間に。
 「なあ。」とか、「ちょっといいか。」とか、声がかかるならいいが、黙ってみていられても対処しようがない。
 何か分からない問題にぶち当たって、ただそれがいい辛いだけか──説明するまでもなく、今日のオレは彼の家庭教師的な立場でここに居るのだし、勝手に予測を立てて、軽い気持ちできいてみた。
「何みてるんですか?」
 分からないことがあるなら、遠慮なくどうぞ?
 その程度の意味しか込めなかったから、こちらも遠慮なく、クロスワードから顔を上げない。
 オレの問いかけに、彼は直ちに答えた。
「くちびる。」
「……。」
「……。」
「……え?」
 思わずきき返してしまった。きき間違い、と思ったからだが……、単語そのもの。きき間違うほうが難しい。彼は、もう一度同じことばで、
「くちびる。」
 といった。
「……。」
 オレは今ではすっかり顔を上げていて、彼の表情から、そこに在る筈の意図を探ろうとした。彼の鋭い目を、じっとみつめて。しかしその目は、幾ら待っていてもオレを向こうとはせず、先の台詞通り、オレのくちびるをみつめるばかり。目をみてくれるなら跳ね返しようもあるのだが──
 ちょっとたじろぐ。
 オレは、……彼に対しては初めてかもしれない、自ら視線を外した。
 クロスワードに向かう。
 自分でもわざとらしいなと思いながら、故意のそっけない態度を装い、
「何かついてる?」
 きく。
 厭だな、次の問題が読めない。彼はひとこと、
「いや。」
 口では否定するくせ、目では延々とみ続けるのだ。頬の辺りがくすぐったい。オレは、
「じゃあ、何か気になる?」
 ……同じようなこときいてる。
 彼はこれにも「別に。」なんていい、何だか態度がはっきりしない。オレは心の中でいよいよ困ってしまった。小さく息を吐く。
「何?」
 ときいても、前と同じ問答の繰り返しになるだけだろう。
 少し趣向を変えて、踏み込んできくのが一番早いか。
「桑原くん。」
「あん?」
「ふざけてる?」
 と、オレはいった。顔を上げ、今度はちょっとキツめに視線を注ぐ。
 彼も、今度こそオレの目をみる。
 沈黙の、約十秒。
 ため息という形で破ったのは彼だった。
「んなんじゃねえよ……。」
 頭の後ろをかしかし掻きながら、厭そうに呟いて視線を横に逸らす。
 みつめるオレは、本心から困った顔をする。

 問題集に向かう目。
 その真剣な目も、今はいい訳を避けるための逃げにしかみえない。
 再び始まるそれぞれの時間。
 だが、しばらくすれば、結局──
「ねえ。」
 オレはテーブルの上に両手を置き、その場によいしょと立ち上がった。動作の流れの中で、
「集中できないなら、オレ、しばらくその辺歩いてきますけど。」
「……。」
 そして、彼をみ下ろし、
「そのほうがよさそうだ。」
 彼は、
「何でだよ。」
 明らかに不服そうな声。「だって。」といいかけるオレは、……自分でも分かる。今鏡をみたら絶対に凹む顔をしている──眉の間に力が入る。
「さっきから気が入ってないじゃないか。」
「んなことねえよ。」
「『んなこと』ありそうだからいうんだ。」
 反論を受け、オレは一度は座り直した。
「桑原くん。」
 彼の名を呼ぶ。
「キミ。今日、おかしいよ。」
 諭すような調子でいうオレに、彼は、
「怒ってんのか?」
「そう、みえますか?」
 確かに、この心の乱れは怒っているのかもしれない。彼が黙る。
 オレは次はどうするべきかを考えている。頭上には幾つかの選択肢が上がり、それらを選んだときに生じる影響を利益と損失に照らし合わせて策を練り始めた頃──突然彼が、ずいっと身を乗り出してきた。

 一番に思ったことは「最悪だ。」ということ。……彼に対してではない。自分に対して。
 しかもその「最悪」は、確実に自分自身のことばがきっかけとなり引き出されたもので、彼には一切非がないということ。罪悪感を通り越した先にある場所を、初めてみた気がする。
 でもどうすればよかったのか。それだけを考える時間を後に持てたとしても、答えは出ないに違いない。
 ──はなしが逸れてるって?
 じゃあ、実際に起こったことをおはなししましょうか。

「オレが怒ってるとしたら、それはキミが中途半端に色気づいてることだよ。」
 と、いい放ったのだった。
 ……いい訳の機会をいただけるなら、本当はそんなことをいうつもりはなかった。だが、
「何だよそれ……!」
 と怒声を発した彼に、
「帰ります。」
 はなかっただろうと……。これは心から反省してもいい。
 その後は説明も差し控えたいくらいの泥沼で、
「何でだよ!」
 といわれ、
「何が?」
 といい、
「やる気がないなら、オレは必要ないでしょう。」
 と更にいい、彼が何かいいかけたが無視し、あるようでない手荷物を片づけて、あっという間に背を向けて、ドアを開ける刹那には何の脈絡か、
「オレはガキか。」
 そんなこときくなよ。本当のことをいってしまうじゃないか。
「ああ、ガキだよ。」
 その瞬間、オレはこれ程人間を止めたいと思ったことはない……。

「そう思われたくないなら、その質問は場違いだと憶えておいたほうがいい。」

 家に帰れば、出迎えるは弟ひとり。
 早めの帰宅に驚きつつも、スナック菓子か何かをぽりぽりと食いながら、お気楽な顔して「おかえりー。」という。
「只今。」
「早かったね。桑原さんと喧嘩でもしたの?」
 桑原くんは人間なので、少なくとも南野家では公認の存在となっている。(父さんは彼の顔を憶えてないかもしれないが、世の父親などはえてしてそういうものである。)
 弟のことばに、心配しているなら悪いな、と思うから、
「違うよ。」
 一応否定して。続けて「でもどうして?」ときいてみる。すると──ヤツは天使の顔に悪魔を住まわせて、
「だって、着衣に乱れがないもん。」
「(ぴく。)」

 武力行使☆

「ひっどー!殴ることないのにぃ!」
「生意気いうからだ。」
「母さんにいいつけてやる。」
 どうぞご自由にといい捨てて、自分の部屋へと引き上げた。
 自室に入るなりベッドに腰かけて、読みさしのまま放置してあった本を開く。読む気はない。今は何をやっても猫のグルーミング。頭に入る気がしない。
 そのままごろんと横になる。
 静寂。静寂。静寂。
 外の道を二輪車が走り行く。
 近所の子供たちが遊ぶ声。今時珍しい。
 どこか遠くで電話が鳴っている──
 と、しばらくもしない内に、
「とんとん。」
 ドアの向こうからきこえるノックの音。……弟の場合はなぜか口でいう。いきなりドアを開けるのは礼を欠くと思いながら、しかしドアを叩いてみるのも仰々しいと思っているようだ。理屈はよく分からない。
「どうぞ。」
 ベッドに横になったまま答える。既にノブに手をかけて待っていたらしく、ドアはすぐに開いた。秀一は顔だけを部屋の中へ覗かせ、
「『くらま』。」
 と呼ぶ。続けて「でんわ。」といったから、相手はきくまでもない。案の定、
「くわばらさんから。」
 と弟がいう。膨れっ面をしているのは──さっきオレがゲンコツしたせいか。……後でおいしいものを食わせてやろう。
 桑原くんは、気を抜くと相変わらずオレのことをそのものずばりの名前で呼ぶ。オレの家族に対しても然り。日中、電話を取り次ぐことの多い弟などは慣れたもので、時々ふざけてでもなく「蔵馬」と呼んでくるから、最初の頃は心臓が止まりそうになったものだが──危険と感じながらも、今ではオレも慣れっこになってしまった。
 弟はこの呼び名をただのニック・ネームくらいにしか考えていないらしい。桑原くんのほうも最近は直る傾向がみられるが、家族に浸透してしまえばもうどうだっていい。
 オレは、なぜか一瞬考えを巡らす。
 試しに、
「出かけた、っていって。」
 いうと弟は、
「ダメだよ。」
「……。」
「だって桑原さんに、『アニキに居留守使わせるなよ。』って、念押されたもん。」

「もしもし?」
「遅えよ。」
 続けて、
「てめえ、居留守使おうと思ってただろ。」
 何で分かるんだ?
「それで、何の用ですか?」
 とオレはいった。素っ気ない応対──もちろん故意ではない。
 ただ、声が冷たいとはよく指摘される。電話ではそれが強調されるらしい。彼がいう。
「何だよ、まだ怒ってんのか?」
「そう、きこえますか?」
「……。」
 彼はしばらく黙った後、ひとこと、
「今から会えるか?」
 ……小説とは便利なもので、
「さっき会ったばかりですよね。」
 と答えた次の行ではもう桑原くんの部屋に居る──なんてことが可能だ。
 室内へ一歩。突然彼が後ろ手にドアを閉め──
「油断した……。」
 オレが呟く。
「……随分なこと、してくれますね。」
 すぐ上に在る彼の顔をみ上げ、責めるようにいうと、彼はすぐ下に在るオレの顔をみ下ろしながら、
「まだ何もしてねえだろ……?」
 寸止めだった。その距離、僅か二センチ。
 ため息も吐けない。
 オレは顔を横に向ける。少しでも、彼のくちびるから離れたい。
 「頑なな拒絶」というヤツだ。彼の呼吸が苛立つ。
「……んなこええ顔すんなよ。」
 そしていう。「直前で我慢しただろ?」と……。
 「我慢」、か。
 いつからこんな関係になってしまったのだろう?
 彼に会うと決めて、ここへ来るまでの間に覚えていた恐怖。早く大きくなあれ、と水をあげてきたヒマワリが、あっという間に自分の背丈に並んでしまったような、そんな気分だ。……彼が大人になることを、素直に喜べないなんて。
 接近していたくちびるが離れ、彼の声が、耳元で囁く。
「オレ、悪いことしたとは思ってねえから。」
「……。」
「……嘘吐かねえことの、どこが悪いんだよ。」


金魚の水槽

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