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リラの記憶  m e m o r i e s o f l i l a c


 オレの年頃の男子は母親と歩くことに抵抗があるらしいが、家から出るときに近所のおばさんに「仲がいい親子だねえ。」と声をかけられてもなにも感じなかった。単なる冷やかしでもないだろうし、無愛想にして後腐れができて、かあさんにしわ寄せがいくのも申し訳ないので、軽くあいさつをすることを忘れない。そのせいかこの界隈では「南野さんのところのおぼっちゃんは気立てのいいこだ。」などといわれているらしい。オレにとってはそのことのほうが抵抗がある。
 重たい荷物があるからと付き合わされた買い物の帰り道。
「大丈夫?」
 となりを歩くかあさんが心配そうに声をかける。
「平気だよ、これくらい。」
 買い物袋の中身は一.八リットルのしょうゆに一リットルの牛乳が二パック、インスタントコーヒーの特売品など。結構な重量になるので彼女には持たせたくない。
「ごめんなさいね。」
「いいんじゃないの、安かったんだし。しょうゆは百九十八円、牛乳だって百五十八円。最近の底値なんでしょ。」
 所帯じみた会話である。むかしの盗賊仲間がきいたら笑い死にすること必至だろう。
 交差点を左に曲がると公園通りに入る。きれいに舗装された歩道に新緑が心地よい影を落とす。いつの間にか植えられた街路樹。むかしはなかった公園の垣根に沿ってつくられた歩道は広く平坦だ。赤レンガが敷き詰められているが段差はほとんどなく車椅子でも不自由がないだろう。よくできたつくりだ。それに、むかしに比べると公園通りの交通量は増えたようだし、抜群のタイミングで歩道を敷設したといえる。
 変わったな。
 歩道の真ん中、ちょうど今歩いている辺りに一本のライラックが植えられていた。一般的な薄紫のものではなく純白の花をつけるライラックの老木。「白だった」といってしまうが、咲いているところをみたことはない。
 あれは秋、十月のできごと。そう、オレが四歳のころの……。
「秀一、憶えている?」
「え、なに?」
 いわんとすることに大体の察しがつく。

『人間という生き物は平和な世界に暮らすせいか危機管理に乏しく、それに伴い直感力に優れない。但し……』

「むかしここに、ライラックの木があったのよ。」
「へえ、そうだっけ。」
 四歳のころのはなしだ。軽はずみに憶えているとはいえない。
「春になると真っ白な花をつけて、とてもいい香りで。かあさん大好きだったわ。」
 知っているよ。ここはあなたがひとりになりたいときによく来ていた公園でしょう。
「?」
 かあさんが急に立ち止まった。肩をふるわせて笑いをこらえている。
「どうしたの?」
「やだ、わたしったら……。」
 それは百パーセント、思い出し笑いである。
「……ごめんなさい。」
「なんだよ、気になるなあ。」
 なりゆき上機嫌を損ねてみせるが、彼女の考えに想像がつくせいかあまりききたいとは思わない。頭をよぎるのは懐かしいが苦い記憶。
「あなた、幼稚園だったから憶えてないかもしれないけど、ここに歩道ができるときにね、そのライラックの木、切られることになったの。大分老木だったから植え替えの費用が下りなかったのね。その前日にあなたとこの場所に来たの。」
「うん。」
 憶えてるよ。
「その日はそれだけだったんだけど。いよいよ切られる当日っていう日にね、……消えてしまったの。」
「消えたって、ライラック?」
「そう、ライラック……。掘り返した跡もなくて、まるで前からそんなものはありませんでしたっていうふうに、きれいさっぱり。」
「……怪事件じゃない。」
「そうなの。それがね……。」
 彼女が再び笑い出す。
「わたし、あなたがやったんだって思って……、それからしばらくずっと思ってたのよ。」

『人間という生き物は平和な世界に暮らすせいか危機管理に乏しく、それに伴い直感力に優れない。但しその中には母親という例外がいる。』

「なにそれ。」
 そうはいってみるが、まんざら間違いでもないので笑えない。
 あのころ。
 人間は偶像を恐れるがしかし必ずしもそれを信じているわけではないことをオレは知っていた。彼らにとって「魔界」は空想科学ストーリーの舞台であり、「妖怪」はその登場人物でしかなく、彼らの現実世界とは一線を画すものであることを知っていた。
 だから目の前にいる幼子が冷酷非道な行いに迷わない妖怪であったことなど、たとえ公言したとしても誰ひとり信じない。そう高を括って発言や行動に慎重を欠くことがあったと思う。
 あの日もそうだった。
 オレは初めてつれられてきたこの場所の、初めて出会った花も咲いていない老木をみて、「リラの木だね。」といった。
 彼女はなにも答えなかった。
 その後の彼女との会話や周囲の状況からこのライラックが切られてしまうことを知り、深夜部屋を抜け出した。次の日には今彼女がいった通りのことになっていたわけだが、彼女の態度が僅かながら変化したのはそれからで、原因が例の怪事件に絡んでいることだけは明らかだった。疑いの対象がオレであることを察したとき、「危険な兆候」であると感じた。それは存在の是非が問われるなどという小さなことではなく、今まで無条件に注がれてきた「母親の愛情」が揺らぐ未来を垣間見たからだろう。
 しかし彼女の前での行動がそれ以上慎重になることはなかった。それどころか自然なままの自分でいることを心がけている。ある意味吹っ切れたといっていいのかもしれない。当時でいえば人間界で生活をするようになって四年。そう、たった四年しかいない世界、この世界についての詳細な知識がないオレはやはり人間として四歳児だった。そして……。
「ナナカマド、咲いてるね。」
「本当、いい香りね。」
 十四年目の春を迎えても、やはりオレは彼女の側にいて……。


金魚の水槽

※日付は、テキストファイルでの最終更新日です。初期の品です、ご笑覧ください。

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