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プロローグ


 黒猫は足音を忍ばせて歩く。慣れた道程だった。よく踏み固められた白土の道は、正門から広い庭園を貫き城館の入り口へと続く。雑草に蝕まれがちな石畳の散策路も、庭園内を網の目に分岐した後、結局は城館の入り口へ終着するのだった。生まれた頃から知っている。ここなら足の裏から伝わる感触だけで、目を瞑っていても進めた。槍を並べたような高い鉄柵に囲まれた限られた一帯。それが彼女を育んできた世界のすべてだった。
 彼女には母がいた。父も、多分どこかにいたのだろう。但し、今はそのどちらもいない。
 父のことは知らないが、彼女は確かに母が天に昇る光景をみた。死に目に会った、というのは、少し違う。もちろん、ことば通りに捉えるなら、母の亡骸は彼女の目の前に横たわっていた。そして、それをみつめる彼女に悲哀の情はなかった。この世界では親も死ぬし、子も死ぬ。兄弟も、友人も、誰だか分からない者もそう、死なない者などいない。だから、もう決して動くことのない冷たい身体を前にしても、この先は母の助けを借りずに生きなければならない、という不安に身を震わせたくらいで、実際は、突然目の前の世界が開けたような、不思議な期待感に高揚する気持ちのほうが大きかった。
 魂は肉体をぬるりと抜け出し、天へ向かって高く高く昇っていく。彼女は確かに母が天に昇る光景をみた。幼い両目に形の定まらない白い「もや」の塊を追いながら、空をみ上げる彼女は、母にどこに行くのかを尋ねた。母は答えた。
「あなたはまだこないで。」
 微笑んでいるようにみえた。叱りつけるような断固とした意識も感じられた。
 幼い頃から、黒猫はこの城館の建つ敷地をねぐらに、ひとりで生きてきた。そして、その彼女ももう時期母になろうとしている。
 母は子を産み、母は死ぬ。私も子を産み────
 もう行っていいということなのかもしれない。そう考えが至ったとき、腹の中の子が動いた。足を止め、新しい母は優しい感触に浸る。


本文 金魚の水槽

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