Date
2 0 0 4 - 0 5 - 0 8
No.
0 0-
盗人
t o - n i n
月さえ眠りについた夜だった。
プロローグ
「其城夜不知」と呼ばれた城からは、灯りが落ちることはない。城、といっても、誰に攻められる要素もない場所に、その城館は建っていた。
美術品などのコレクションが掻き集められ、収めてある。ただの倉庫として機能しているだけのこの城に、主の住まう理由はない。いるのはただ守衛ばかり。深い森のそのまた奥に、宝の眠る城がある。そんな古典を信じ、訪れるのもただ盗人ばかりだった。それさえも、忘れた頃にぽつりと現れる程度。森の中を彷徨った挙句、困り果てた顔をして帰り道を尋ねに来る間抜けな輩も多かったから、闇に乗じる生き物を警戒するのとは別の意味で、昼夜を問わず、城の灯りが絶えることはなかった。
かくして、「其城夜不知」と呼ばれた城は陸の灯明台として、幻影の如く、はたまた幽霊の如く、今も闇夜にその姿を晒している。
石組作りの城館には、常時二十名程の守衛が詰めていた。詰めていた、というより、彼らはその城館を住まいにしているも等しかった。
守衛はすべて雇われである。ここを解雇されれば行く宛てもない。
彼らは、主から与えられた役割を忠実に果たすためだけに生きていた。毎日毎夜、同じ仕事を繰り返す。城という籠の中で、機械人形のような生活を死ぬまで続ける。抜け出すことは許されない。それを願い出ることは即ち死を意味し、主にとってみれば守衛の代わりなど幾らでも居る。
単調な日々の中、休むことなく自らの持ち場をみ回り続け、それで盗人すら現れないのだから、守衛とは名ばかりの、加虐趣味の飼い殺しである。
そんな籠の鳥たちの、唯一の楽しみが城館の敷地に住まう一匹の黒猫だった。朝が来れば声をかけ、飯時には餌を遣り、擦り寄ってくれば撫でてやり、眠っていれば起こさぬよう静かに歩いた。いつの頃からか住み着いた黒猫のお蔭で、単調な生活に小さな変化が生まれた。そして、他人からみれば小さ過ぎる程の変化でも、彼らにとってそれは大き過ぎる変わり様だった。
黒猫は守衛たちのidolであり、今は身重の黒猫だが、その事実が知れたときは、彼らは彼女をはらませたどこの馬の骨とも知れない男を、それこそ愛娘の処女を奪った男でも探すかのように、血眼になってみたりもした。
それだけ、彼らの黒猫に対する愛着は強かった。
黒猫は白土を踏みしめながら、城館に向かって迷いのない歩みを進める。城館に住まう男たちに甘えたいとか、愛でてほしいとか、そのような戯言を頭に思い描いたことは、ただの一度もなかった。長年顔を合わせているが、守衛ひとりひとりの顔など識別できないし、する必要に迫られたこともない。
彼女の思いはただひとつ。行けば、晩餐のおこぼれを頂戴できるだろう。────食い物さえ手に入れば、相手が誰だろうとどうでもいい。彼女は腹が減っていた。
エントランスへと続く石段に前足をかける。誰に咎められたこともないから、踏み込む姿は堂々としたものだ。
広い玄関ホールから、正面には石組作りの階段が、左右には大理石の板を敷いた通路が、それぞれ次の場所へと伸びている。通路の壁面の天井近い場所に、幾つもの燭が灯っており、大理石の滑らかな表面を光が反射している様子はいつもと変わりがない。ただひとつ妙なのは、いつもなら入り口付近にひとりは詰めている筈の夜の番人の姿が、今宵はみえない。
城館の内部は静か過ぎる気配である。通路を風の通う音がするくらいで、他には物音ひとつしない。まるで静寂が世界を支配してしまったかのようだ。
風が鳴く。静寂が不安を掻き立てる。
試しに一声鳴いてみようか。誰を呼ぶつもりもないが、現れる者があれば少しは気が紛れる。黒猫はひとつ身震いした。だが直後、何かに気づく。視線を上げ、左右の通路をみ回している。
遠くから人の足音がきこえた。ゆっくりとした歩調が、大理石の平らな床と狭い通路の壁に音を増幅され、伝わる。遠慮も警戒も感じられない足取りだが、どうやら守衛ではないようだ。柔らかい皮の底を貼った履物をつけている。そんな男ここにはいない。
それでも、黒猫は右側の通路を選んで歩き出す。彼女には人がいれば守衛だろうと盗人だろうと関係なかった。人は食い物の発生する機械と同じ。それ以上の興味はない。
しばらく直進が続き、やがて左に折れると、前の通路より少し幅の広い通路に出る。先程の殺風景とは違い、左側の壁面にはずらりと絵画が飾られ、右の壁際には彫刻やら装飾用の鎧やらが整然と並んでいる。未だ誰ひとり出会う者はないが、足音は絶えず続いている。黒猫は先へ進む。
少し歩くと、今度は右に折れる。そこで、彼女は何だか取り越し苦労な心持ちがした。
ようやくひとりの守衛を発見する。何だ、いるではないか。彼女は腹の減った急く気持ちを抑え、物乞いの卑しい態度はあえてみせまいと、悠々品格ある足取りで進んだ。尾を立てて歩くのは、彼女の気取るときの癖である。そして、向こうが気づくまでは鳴かない。気づいたら甘えた声で一声鳴いてやろう、と思ったのだが。
近づく。あと一メートル。影が届く。もう目の前。
左右に歩く。顔を覗き込む。だが、守衛は動かない。
守衛は尻を床につけて、背中を壁に持たせている。力なく開いた両足は通路の中央に投げ出したまま、深くうなだれた首。動く気配のない様子は、まるで陳列されたただの置物のようだ。
彼女はそっと守衛の膝に前足を置いた。頬の辺りに首を伸ばし、匂いを嗅いでみる。息はあった。眠っているだけか。それにしては随分深い眠りに落ち込んでいる。
しかし、そうと知れば、彼女はただ落胆するばかりだった。腹は満たないのだから、この守衛に用はない。それに、足音の主は依然通路の向こうから、その存在を示している。
希望はその人物に託そう。黒猫は再び歩き出す。
その男は、通路の交差する点に開けた広間に、息を潜めて隠れていた。尤も、息を潜めていると思っているのは本人だけで、実際は目の前に起こった現実から否応ない緊張感を与えられ、まさに不意をつかれた素人兵士のように、空気の圧力に押し潰されないよう耐えているのがやっとの状態だ。呼吸は次第に荒くなる。
広間に接続した四本の通路は、どれも「其城夜不知」の名を誇るかの如く、燭の灯りに美しく照らされていたが、この広間だけはすべての灯りが落とされていた。男が消した。闇は、確かに恐怖を増長する。それでも、今は危機を回避する可能性に賭けるほうが、男にとっては大事だった。
男は守衛である。
広間は、正面の壁はすべて窓になっていて、他の三方には壁一面を占める巨大な絵画が、それぞれ一枚ずつかけられていた。そのひとつを覆い隠すビロードのカーテンの内に、男はいた。
だが、そいつがここを通れば、ばれるのだろう。守衛は今宵の出来事を振り返る。
二人連れ。アベックの珍客だと思った。人の訪問は珍しいことではあったが、ひとりは男で、もうひとりは髪の長い、恐らく男。軽装にみえたし、誘拐してどうこうというはなしも他方ではきくから、遠目からその風貌をみ比べて、欲望の解放できる場所を求めて迷い込んできたその類か、やはりアベックの珍客なのだろう、と思った。が、今なら分かる。間違いない。奴らは本職の盗人だ。
克服しても、克服しても、恐怖は心の泉から際限なく湧き出でる。いっそのこと大声に叫んで、己の居場所をそいつに知らせてしまいたい。そんな衝動にも駆られるが────
盗人は城館に踏み込んですぐ、何か薬品らしきもので守衛の尽くを眠らせた。騒ぎ立てなければ殺すつもりはない証拠だ。昔誰かにきいたことがある。殺しをするのは二流の盗人。一流は窃盗にのみ命をかけ、無益な殺生はしないもの。盗人にも、盗人(盗みに生きる者)なりの誇りがあるらしい。
眠りに至らぬ身は、有益な殺生の内に入るのだろうか。
この守衛も、薬品によって他の仲間同然深い眠りに落ちていたなら、命の危険に晒されることはなかった。無論、相手は無法者の盗人である。眠ったからといって殺さないとは誰にもいえなかったが、それでも、眠っていれば己の運命の、生と死の天秤にかけられた現実に苛まれないだけまだ増しなような気がする。
足音が、次第に広間へと近づいてくる。ピタン、ピタン。スローテンポに響く音が、心臓の鼓動を早くする。
脂汗が髪の毛の中から首へ、額へ、下りてくる。荒い呼吸で口の中はカラカラに乾き、生唾を飲むこともできない。
守衛は目をみ開き、カーテンの隙からあるひとつの通路に狙いを定め、じっと視線を注ぐ。
運命という時計があるのなら、あの足音はきっと、それの奏でる音なのか────
盗人は楽しくて仕方がない。燭の灯る大理石の明るい通路を行く間に、眠り崩れる守衛を何人もみた。皆、面白いように眠り草にかかる。呆気ない。そこに多少の物足りなさを感じながら、だが物事の滞りなく進む様は実に愉快だ。盗人はくちびるの端を上げる。足音を立てて歩くのは自信の現れ。穏やかな微笑とは裏腹に、その目に宿る光は強かな色を失わない。
腰丈程もある長い銀髪。歩く度に軽く、背中の後ろへふわりと遊ぶ。背筋を伸ばし、胸を張り、夢よりもゆったりと歩む姿は、どこか老練らしい威厳を感じさせるが、薄手の衣をまとわせた身体の線は存外細く、すらりと伸びた剥き出しの腕と、そこにみる雪よりも白い肌の印象は輝かんばかりに若々しい。そして何よりも印象深いもの、それはこの城館に収められた数あるコレクションの中でもこれを超えるものはなく、どの絵画に描かれた天女よりも、どの彫刻に模された女神よりも、恐らく────
不意に、盗人の足が止まる。しばらく通路を行き、何度目かの角を左に折れたところだった。風景が変わる。つまりここが行き詰まりか、その先は、これまでの明るさに比べると不自然に暗い。
どうやら広間の入り口に出たらしい。そこから内部に視線を巡らせ、薄暗闇に目を慣らす。
どうやら広間の入り口に出たらしい。そこから内部に視線を巡らせ、薄暗闇に目を慣らそうとしたとき、自分をみつめる鋭い視線があることに気づく。黒猫はその場に尻をつき、立てていた尾を冷たい大理石の上にぺたりと落ち着かせて、顎を引いた低い姿勢から対角線の向かいの通路をじっと窺う。
そこに佇む男、あれが求めていた足音の主か。やはり守衛ではなかった。思うが、予測をしていたから落胆はない、心の内で納得の首を縦に振る。
ここに住まう男たちとは明らかに別種の生き物だ。それが腕を組み、こちらに興味を示していることは分かるのだが、ここからだと逆光になり、黒い影の輪郭にしかみえない。
動かなくなった黒い塊をこうして観察していると、黄金玉のふたつの目だけを宝石のように光らせて、逆に己が観察されているようだ。盗人は思いついた考えにひとり笑う。
盗人に恐怖はない。警戒の対象はすべて眠らせた。時間を含め、余裕はあり余る程にある。無論、心にも。
闇の中へ、一歩踏み出し、また一歩踏み出す。ピタン、ピタンと鳴らして、広間の中央にきた辺りで再び立ち止まった。盗人はその場に片膝をつき、優しげに細めた目を前方へ向け、何もない手のひらを上に向けてそっと差し出す。
若草の青い匂い。薬草の苦い匂い。花のほの甘い匂い。
その男からは多種多様の匂いがした。しかし、一番欲していた物のそれだけは、残念ながら感じられない。黒猫は失望する。
チュッチュッと舌を鳴らしてもみたが反応はなく、闇に光る満月の目玉は、時折くりくりと瞬きするだけで、相変わらず盗人を観察し、自ら動こうとはしない。その事実がまた、盗人の愉快な感情を刺激する。
そうか。あれは猫だった。あれとは、昔から相性が悪いから。盗人は今度は苦笑する。
黒猫は動かない。
盗人は動かない────
なぜ動かぬ。守衛は瞬きも忘れ、血走った目でカーテンの隙から薄暗闇の中心を一心にみつめる。
その男は乾いた足音を伴って、逆光の中から現れた。この角度でははっきりとその姿を確認することはできないが、二人連れの盗人の、片割れに間違いない。奴はもうひとりの男に守られるように歩いていた、長髪の細いほうの男だ。
それにしても。守衛は思案する。
細身の男。色素の薄い長い髪を繊細そうに肩から背中へ垂らし、頼りなげな横顔の影は年端も行かない少年のようにもみえる。腕の肉のつきかたひとつみても、到底腕が立つ相手とは思えない。ならば恐らく、この男はもうひとりの男の単なる連れ合いで、真の盗人はそいつひとり切りか。守衛は暗闇から一点の希望をみ出だす。
「この男だけ」なら、戦い慣れしていない己にも、勝てるみ込みがありそうな気がする。それに、敵の若い盗人は大理石の床に膝をつき、前方に何か別のものを捉えている。今は己の潜んでいる現実に、気づいていないのだ。ここは先手必勝、飛び出して、奇襲に一太刀食らわせてやろうか。そう思い、腰の帯に携帯した短刀に手を伸ばしかけたが。
否、待てよ。守衛は果たして思案する。
この盗人を襲ったところで、もう片方が現れたとしたら、どうなる。そいつが盗人なら、今はどこか別の場所で盗みを働いているのだろう。だが、仕事が終われば合流する。そいつにとって、きっと戦いは日常で、連れ合いが襲われている場面に遭遇し、逆上することを想定するなら。敵わないことは目にみえている。
大切なことを思い出せ。敵の若い盗人は。今は己の潜んでいる現実に、気づいていないのだ。気づいていないものを、わざわざここに居ますよと出て行く必要はないだろう。
己はただ待てばよい。奴らが去り、多少のコレクションは減るが痛手を負うのは主だけだ。明日になれば、いつもと変わらぬ単調な日常が、当たり前に始まる。
そうと決まれば、早いところここから立ち去ってほしい。それを────
なぜ動かぬ。守衛は失神しそうに、心臓の音までが天を貫くかと思われる。動く者はない。空気の振動さえ止まり、時間は進みかたを忘れてしまったのか。苛立ちも頂点に達すると、この世のすべてが恨めしい。
静か過ぎて今にも気が狂いそうだ。止まれと命じても、足の関節ががくがく震える。その音が敵にきこえはしまいかと、また足の震えが止まらない。
その内に、守衛は奇妙な光景を目撃する。
盗人は相変わらず膝をついた姿勢で、前方だけを注視していた。その首が、徐々にだが、守衛の潜む壁面の方角へ回っているのである。明らかに、こちらへ向けて、視線を移動させている。
気づかれたのか。
守衛はいよいよ短刀に手を伸ばしかけた、そのときだった。
「ニャー」
静寂を破り、きき慣れた細い鳴き声が守衛の鼓膜を響かせた。緊張感の欠片もない、甘ったるい鳴き声。守衛はぎくりと息を飲んだ。
なぜならその声は、すぐ傍からきこえた。それは、布一枚隔てた向こう側だ。
あれ程呼んでも、己のほうはみ向きもしないのだから、やはり猫とは相性が悪い。ようやく腰を上げ、ぴんと立てた尾で天を指して歩き始める黒猫の動きを、盗人は怒るでもなく、悲しむでもなく、み守った。
黒猫の足取りに迷いはない。トテトテと真っ直ぐに、盗人の左側に位置する巨大な壁面へと向かう。一面に、一枚ものの絵画がかけられているらしい。今はビロードのカーテンに覆われて、全貌を拝むことは叶わない。
ほう。こやつは絵が好きなのか。
なるほど面白い────
この段になっても、盗人は「そこに潜む者」の存在に気づいてはいなかった。
それは黒猫がビロードのカーテンに達し、その裾に前足をかけたとき。
「ニャー」
もう一声鳴くものを、カーテンの内側に潜む男は覚られまいと必死の思いだ。来るな。来るな。心の中で、何度も繰り返し叫ぶ声はいつしか怒声に変わり、すねの辺りを叩く感触に、昨日まではかわいい愛娘の黒猫も一思いに蹴り殺してしまいたいくらいに憎い。
来るな。来るな。
どうせ食い物がほしいのだろう、この卑しい豚猫め。ほしけりゃ、後でたらふく詰め込んでやる。だから今は来るな。
「ニャー」
人の思い込みとは恐ろしいものだ。自身の間抜けを反省するより先に、盗人は笑った。それは結局、盗人にとっては愉快な事柄のひとつに過ぎなかった。反省なら、「奴」に事態を説明して「少しは反省しろよ。」と責められたときにまとめてすればよい。「奴」が「少しは反省しろよ。」と責めるとき、いつものように眉根を寄せて心配そうな顔を作るのだろうか。そうしてオレが、首を竦めて情けない顔をしてやったら、「奴」は喜ぶだろうか。それを想像しただけで、また盗人は愉快でたまらなくなる。くすくすと笑う。
だがその前に────
「ニャー」
黒猫は執拗に前足を上下する。何度も何度も動かす内に、爪がかかったらしい。カーテンの裾が、僅かに持ち上がる。
たった一度。それも、僅か十分の一秒にも満たない出来事。それでも。
足がみえたのではないか。
極限の緊張に苛まれた男は、心臓を捻り潰さんばかりに胸倉を掻きむしる。
みつかった。ならば、次はどうすればよい。このまま潜んでいても、刀か何かで一突きにやられてしまうかもしれない。だがもしかすると、黙ってみ過ごしてくれるかもしれないが、無法者の盗人が、万が一にも甘い情けを持つとは考え難い。ならばどうする。どうする。
盗人は左の壁面をみ据え、ゆっくりとその場に立ち上がった。
黒猫の喉を鳴らした甘え声は、何者かが発した激しい雄叫びに掻き消された。
如何にして戦った結果がこうなのか。守衛はぽたぽたと床に滴る汗の数を、意味もなく数えている。
ただ、確かな現実はここにある。守衛は斬りかかった短刀を柄を握った右手ごと掴まれて、盗人の手を借り、その刃を己の首にぴたりと宛がっている────
戦いは既に終わっている。静寂の中、守衛の脳裏に断片的な記憶がよみがえる。
それは、振りかざした短刀に反射する白い光の軌跡から始まる。
右手で短刀を抜き、左手でカーテンの合わせを払って躍り出た。潜んでいる間ずっと立ちっ放しだったから、足がもつれなかったのが不思議なくらいだ。
一太刀目。妙に甘い匂いにはっとした。
二太刀目。逆手にないだ短刀を避けて、盗人が上体を反らしたとき、初めて顔をみた。
どうすればよい。漠然とした迷いが、守衛の身体の動きを奪った。だがそれも一瞬。盗人の姿が視界から消える。足払い。咄嗟の閃きに不思議と身体がいうことをきいた、危うく一歩後ろに飛び退く。
三太刀目は突き。柄頭に左手を添え、敵の左胸を狙った一突きは、ひらりと体をかわされ空振りに終わった。勢いで体勢は崩れ、足はもつれがちに前のめりに転ぶ。が、いつまでも倒れている訳にはいかない。すぐに左手で床を叩き、身体を起こしざまに反転、再び今度は横なぎに斬りかかる。それもまた、軽く受け流される。
左に。右に。何度も斬りにいくが、当たらない。それでも一手打つ度に一歩、また一歩と踏み込んでいるから、この戦いを圧している錯覚がする。
しかし、どちらが真に優勢かと問えば。────一目瞭然だ。
斬りかかる度に大振りに振る守衛の右腕からは、大粒の汗が飛び散る。その腕も既に棒になり、感覚はない。
反対に、防御一手に立ち回る盗人のほうは、敵の攻撃を紙一重で避けているようにみえて、焦りのひとつもない涼しい顔をしている。これだけ動いたのだから、そろそろ動きが鈍ってもよさそうなものだが、身軽な足取りに変化はない。そして、口元にくっきりと浮かべた冷笑。
そう、この男は戦いながら笑っている。
守衛はもうひとつの錯覚に陥る。
俺が斬りにいけば、この男は笑うのだ。それも、何て楽しそうな顔をする。避けられて、俺がしくじるから、それが面白いのか。
敵を。盗人を。美しい罪人を。
俺が喜ばせている。今、この瞬間、それを唯一叶えられる者が、俺。ただ、俺だけ。
確かめるように斬りかかる。確かめるように。左に。右に。すべての攻撃は避けられ、盗人は笑う。時に白い歯をみせ、時に美しいくちびるの間から微かな吐息を漏らす。楽しげに細めた目が守衛をみている。その瞳に映る者は、唯一────
いつしか、守衛の顔には歓喜の笑みが浮かんでいた。恐怖と緊張に頬の筋肉が歪んだままの醜い笑みだが、守衛には盗人の要求に応えている自信があった。現に、妖艶にもみえるその微笑は、拙い戦い振りに奮闘する、かの守衛にのみ向けられているではないか。────但し、戦いは既に終わっている。
髪から顎へと流れた汗が、またぽたりと雫を落とした。守衛は荒く息を吸い、荒く息を吐く。その動きだけで、首筋に押し当てられた短刀に首の皮を切られてしまいそうだ。
盗人のもう片方の手が守衛の帯を掴んでいる。だが、守衛には逃げる気力もない。戦いに疲れ、本当ならその場にへたり込んでいるところなのだ。それに、守衛は気づいている。誰が真の盗人だったのか、ということに。
「フフフ。」
声を出して盗人は笑った。守衛は無気力な顔を上げる。もしかしたら戦いの最中にみたものは正常な意識下では現れない類の幻覚だったのではないか、と切実な願いを込めての行動だったが、改めてみる盗人は非の打ち所がない、やはり美しい男だった。
盗人がゆっくりと顔を近づける。守衛は無意識の内にその瞳をみつめた。不謹慎にも、くちづけされればいいのに、などと下卑た考えまで浮かんだ。そう考えてしまう程、守衛の心にはこの盗人に対する異様な思い入れが生まれていた。近づくくちびるが、その耳元で止まる。
「フフ。」
また笑う。耳をくすぐる呼吸が、死を待つ身にも心地よい。盗人は問う。
「おまえには眠り草が効かなかったようだな。なぜだ。」
微風のような囁きの後、盗人は再びゆっくりと身体を引いた。互いの顔を正面にみつめ合う。
盗人は興味津々な、真剣な目をしてじっと守衛の目の中を覗き込み、動かない。それの示す意味が、守衛には分かった。これは、子供の目だ。surpriseを期待する、世界は未知が溢れているものだと信じて疑わない、無邪気で無知な子供の目。
盗人が守衛の答えを待っている。フワフワと笑う。期待しているのだ、己を失望させないだけの種を仕掛けた、これはプレゼントだ。
守衛は後悔する。己は何とつまらない男だったのか。その人生すべてを否定し、これ程自分を恥じたことはない。
盗人の表情が、一度に興醒めしたのを確認した。
ただ、それだけだ。
耳に残る最後の音は、「プツリ」という何か薄いものが破けるときの軽い音。今まできいたことのない種類の音。それはそうだ、己の首の皮の裂ける音など、きいたことのある者は「生きている者」の中にはいない。
薄暗闇の広間に佇む影は、逆光に音を出してほとばしる血液の映像を映して終わった。影の倒れる最後の場面を、大理石の床に尻をつき、長い尾をぺたりと落ち着かせた黒猫の、宝石のように光る黄金玉の目がみていた。
エピローグ
金魚の水槽
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