Date
2 0 0 4 - 0 2 - 1 4
No.
0 1-
男と女
u n h o m m e e t u n e f e m m e
ある国に、某という名も語り知れない男が住んでいた。この男の由縁を示すような記述は、如何なる文書(もんじょ)にも残っていない。身分は高くもなく、低くもない。中階層の極ありふれた男である。その一生も極ありふれた流れを経て、可もなく不可もなく終わるのであるから、男の名を知り得ないとしても誰に文句をいえるはなしでもない。物語も単なる恋話であるから、この某という名も語り知れない男の呼称を、ただ「男」とだけ記すことになっても、さしたる問題はないと思う。
よって、ある国に男が住んでいた。男は、村外れの一角の、雑木林を背にした小さな鍛造工房で、鍛冶屋の見習いをしていた。
この国には鍛冶屋が多い。道を歩けば鍛冶屋に当たる、といっても誇張ではない程、町中を行けば右も左も向かいも鍛冶屋だった。国を支える土壌は元来農耕に適さず、痩せた土地を抱える民の暮らしは決して豊かではなかったが、目にみえる地面を適当に選んで掘り起こせば、赤みを帯びた岩石がほろほろと顔を覗かせ、金、銀、宝石は無理でも、鉄だけは豊富に採れた。歴史の浅い小国で、元々隣国が鉄の採掘で成功を収めた大国ということもあり、後手の身では採掘の競争に加わるのも愚かしいということで、自然の流れで鉄の加工業が盛んになった。故に、この国には鍛冶屋が多かった。
男は、未だ見習いではあったが、師匠の真鬼の守の一番弟子として、仕事なら要の要までを手放しで任される程の腕前であった。師匠からの信頼は厚く、今ここで真鬼の守が首を縦にひとつ振れば、すぐにでも看板なりを分け与えられて然るべき大成振りをみせていた。
この男の人となりを知りたければ、「素朴」という文字を辞書で引いてみるとよい。と、この男を知る者の誰に説いても、恐らく否定はされまい。怒るときは豪快に怒り、笑うときは豪快に笑う。一見すると粗野な男にみられがちだが、実はお人好しなまでに人がよい。人望があり、兄弟弟子からもよく慕われている。都会的な知略のまるでなく、野心といえば、野心のほうから尻尾を巻いて逃げていく。どこを探しても敵を作る隙など欠片もみ当たらない、そんな好青年を絵に描いたような男だった。
まだ若かった男には、恋を成就させた女が居なかった。若いといっても、女房をめとらない年ではないが、男の持つ女への執着は、職人らしい実直と勤勉の前には、米粒か粟粒に等しい。
ただ、そんな男にも、思いをかけている女なら居た。
その女は、人里を林ひとつ隔てたうら寂しい屋敷に、侍従の女数人と暮らしていた。そこは野犬の声もきかれぬ荒地。屋敷の周囲の尽くを、手入れの追いつかない竹薮に囲われており、その屋敷も元は古い社の借り受けであった由来から、近隣の村人からは「竹宮の姫」などと称されていた。
このように、世間と隔絶された孤城に住まう姫ではあるが、出身は建国以来代々中央に仕えてきた官吏の一族で、所謂高貴な家柄の娘らしい。大衆の耳を通う噂によると、何でも地方官吏の職に就く父親の、民を民とも思わぬ責務を超えた横暴に大層嘆き入り、早くから後継ぎとしての教育を受けてきたものが、家を捨て、地位を捨て、若い身空で隠居に入ってしまったそうだ。
しかし、隠に居しても、人との縁は切れることがない。痩せた田畑を耕し耕し日々の侘しい糧を得る、ここは貧しい農民の集落である。姫は、父親とは違い、情の厚い女で、尋ねてくる者があれば、それがどんな醜い老僕でも快く接見したし、悩みの相談が舞い込めば、親身になって解消法を導き出したし、争いの発生を伝えきけば、自ら赴いて事を裁定したし、近所に赤子が生まれれば、頼まれて名づけ親になることもあった。竹宮は、今や貧しい村人たちの数少ない拠り所となり、当初こそ早い内に隠居を脱して官吏である父親の元へ戻ったほうがよいと熱心に勧めていた村人も、できることなら姫にはこのまま竹宮に退き続けてほしいものだと望む始末である。
そんな、評判のよい女である。欲に聡い町の若い男共が、みすみす放っておく訳がなかった。住まう場所が場所だけに、姫が町の往来を出歩くことは滅多になかったが、姫の優れた器量は、なぜか国中隅々まで、果ては隣国にまで噂が流れる程、広く知れ渡っていた。年の頃も今が盛りである。姫の元には、是非とも姫を手元にめとりたいと申し寄る使者やら、従者を伴った当人やらが、花や詩歌や絹などの贈り物を携え、連日訪れていたこともあった。……こともあった、つまり、現在の姫の身辺は実に静かなものである。それはなぜか────
姫は、確かに器量もよく、利口で、芸の才もあった。しかし、それが過ぎるせいであろう、人並みの女に比べると気が強く、女としての淑やかさに欠けるところがあった。無論、育ちのよい姫は、所作言動すべてにおいて非の打ち所がない品格を兼ね備えていた。どこか世俗とは一線を画す要因にならなかったとはいい切れない。殊に男に対するときなどは、思ったことばを心に留めることを知らない、恋の駆け引きの中に回りくどくて退屈な計略しかみ出だせない、己を弱い者として扱われるのを好まない、もちろん相手の支配欲に巻き込まれるのは賢い女のすることではない……、等々。一般的な男の尺度で計れば、はっきりいって融通の利く女ではなかった。よって、これも当初は我先にといい寄る男が後を絶たなかったものが、ひとことかふたことことばを交わしただけで、一度尋ねてきた男が再び現れることは、終にはなかった。
が、それは過去の事柄であるから、今は蒸し返さずともよい。
兎に角、竹宮の姫は知性と教養のある、思慮深い女であった。そして、何よりも美しかった。
さて、この物語の主人公である男は、かの姫君に恋をしていた。多くの町の若い男共のように、噂にのみ知る姫の美しさに興味を引かれたわけではなかった。この男に限っては、互いを互いとして判別できるだけの面識を持ち合わせていたからだ。
男と女の接点は、男の師匠である真鬼の守と女の父親の官吏が従来親しい間柄であった、とだけ記しておけば事足りる。真鬼の守は男を供に連れて、折々竹宮を訪れていたから、知り合った由縁もあえて記す必要はないだろう。
最初の頃は、女に対して特別な思い入れを抱くことはなかった。全く興味がなかった、といえば嘘である。しかし、男がこの女の「女であること」に色を感じ得なかったのは、真(まこと)事実である。
これの感想を強いて語るならば、老翁の真鬼の守を前に、「欲の多くは男の野蛮さに由来する。」と若い女(め)らしくもなくいい切る姫を、何とも可愛げのない女だと思うくらいで、ああそれならばみ返してやろう、とも思わなかったし、以来この女に興味らしい興味を持つことは皆無だろう、と、その時点では思っていた。
それが心変わりしたのは、案外単純な理由からであるが……。だからといって、誰もこの男の軽薄を軽蔑してはならない。恋心とは、神のみぞ知る秘力なのだから。
ある日、男はいつものように師匠の供連れに、竹宮の姫に面会していた。通されるのはいつも同じ室、庭に面していて、その日も縁の向こうに、池を彩る睡蓮の花が美しかった。その狭いが落ち着きのある小室で、男はもてなしの茶には手をつけず、師匠の後方に姿勢を正して控えていた。師匠は庭向かいに胡坐座で茶を飲み、接待する若い姫と晴れやかな談笑を交わしている。内容は季節のことや花や木のこと、或いは俗世で今流行りの事柄など色々であったが、今はそれを殊更気にかける必要はない。
しばらくの時間を経た後、不図、師匠の真鬼の守は竹宮の姫にこんな文句を申した。
「否(いや)花さんも、かような人里離れた土地に、お一人で住まわれているのは、そろそろ寂しくなる時分ではございますまいか。」
……申し遅れたが、竹宮の姫は名を花という。「華やか」ではなく「野花」の「花」と書くそれが、本人の気性とは随分かけ離れた印象を受けるのは、さながら親の心子知らずといったところか。
げにあらず、と女は申した。
「そうでもござませんわ。町中で車や馬の行き交う音をきくよりも、風や木の葉や鳥たちの奏でる音をきくほうが日々楽しいではございませんか。それに、ここには一彦や二助などの侍従も居ります。私は一人ではございません。」
女は人懐こい微笑をみせた。客人のおっしゃるような寂しい心持は一点も存在しない、と如何にも頼もしい気配である。受けて、真鬼の守も笑った。
「左様とは、ほほ、これは父上によく似た気丈なお人柄じゃ。」
「私は、気ままに生きることが性に合っているようでございます。」
両手の指先をついて静かに頭を下げる。
「しかし、勿体のうございますな。」
と、真鬼の守は申した。
「かように美しいお人が、めとられずにいらっしゃる。これでは真、『一輪の花』が人知れず咲いているご様子。」
そうことばを接ぎ、更に申すには、
「花さんのような強いお人には、夫の存在など無用ですかな。」
その問いかけに、女は殊更気に病む風でもなく、やはりにこにこと春の陽だまりの如く微笑んでいた。しかし、
「私は皆様がおっしゃる程、強くありませんわ。」
そう答えた女の美しい微笑の内に、俄かに表れた陰りを、後ろに控える男はみ逃さなかった。それは自嘲を匂わせるような辛い色。気づいてしまった男が、一時(ひととき)にはっと我を忘れる程であった。そして、
「……男手のない一人身は、何につけても心細いものでございます。」
と申したときの、えもいわれぬ佇まい。伏し目がちに長いまつげを伏せ……、まるで無情の浮世を己ただ一人切りで生きている、助くる者の何も居ない、その背後には切り立った断崖絶壁に凍てついた厳冬の風がごうごうと渦巻き、轟いている様すらみえるようであった。
女は細い指で客人の飲み終えた茶碗を引き寄せ、供連れの手をつけないまま冷めてしまった茶と共に、主人自ら取り替えようと座を後にする。よくよくみれば、線の細い頼りなげな女である。気丈という衣をまとっているだけの、か弱い女である────
続く ...
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