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月下才人  i n t h e m o o n l i g h t


 丙は真夜中に目が覚めた。何かの夢をみていたのだろう、突然足の筋肉がびくんと痙攣して、それに驚いてぱちりと目が覚めた。但し当人、未だ何事か分からずか、目覚めたときの横向きの体勢のまま、何度かぱちくりと目を瞬かせた。
 しばし闇をみつめた後、とりあえず半身を起こしてみようと思うのだが、腹の上に乗った自分のものではない腕が重たくて、容易に起き上がることができない。その時点に至り、丙はようやく、ここが黄泉の寝床であることに気づく。
 丙は黄泉の寝床に居た。今宵こそは黄泉と一緒に寝たい────丙が我侭にいい張り、実現させた。黄泉は、大して懇意にもしていない男を寝床に引き入れることには相当抵抗したらしいが、あまりに泣きそうに訴える丙の様子をみ兼ね、これ以上騒ぎが大きくなってもかなわないだろう、と甲が諭した。最終的には騒ぎをききつけて現れた大将の、
「まあ、悪いことでもなかろう。」
 のひとことがすべてを決定した。大将としては、単純に、組織内部に発生した諸問題を円滑に処理しようと思慮を加えただけなのだろうが、それをきいたときの黄泉の心情は察するに堪えない。だから、丙は決して黄泉たっての希望で寝床に引き入れられた訳ではないということだけは、黄泉の名誉も踏まえ、はっきりさせておこうと思う。
 当初こそ避けるように背中を向けていた黄泉の身体も、いつの間にか丙のほうを向き、その右腕はさながら弱い者を守る形で、丙の腹の上に置かれている。それはどことなく、抱かれていると表現できそうな状況に似ていて、丙は間近に在る黄泉の寝顔と呼吸に、心から安心感が湧く。さながら守られる者のように、その胸に額をすり寄せて、そっと目を閉じる。
 丙と同じランクに位置する若い衆は、副将の人好きしない性質を過剰に怖れて、黄泉にはそうそう近寄ろうとはしなかった。しかし丙だけは、不思議と黄泉を慕っていた。理由は丙自身にもよく分からない。恐らく波長が合うのだろう。小動物のように勘のよい丙は、それが自分にとって有害な人物か、無害な人物かを瞬時にみ分ける能に優れていた。丙は黄泉の本質を、「本当は弱い者をみると放って置けない人情の男」だと踏んでいる。そして、実際黄泉はそういう男だった。但し、当人には自身の甘さに対する自覚もなければ、それを認める素直さもない。
 額に黄泉の温もりを感じながら、こうして温もっていられる己は真に幸せな男だと丙は思う。できることならこの先の人生をずっと、この男の温もりの側で生きていきたい……、心からそう思う。しかし、そこに深く愛されたい欲求が存在するのかと問われれば、そんなつもりは毛頭なかった。ただ懐いて、側に居たいだけ。丙の感情はいつも果てしなく幼稚だった。だから、もしも黄泉がぶち切れて、暴走の末、丙相手に淫らな行為をしでかしでもすれば、丙の黄泉に対する興味など、一瞬の内に跡形もなく消え去ることだろう。甲などは既にその事実に気づいてはいたが、万が一黄泉の耳に入れて、丙を遠避けるための手っ取り早い手段として、忠実に実行されても芳しくないため、当面は伏せておこうと思っている。
 黄泉の温かな身体に包まれて眠る幸福なこの時を、丙は仔猫のように身体を丸め、心から楽しんでいた。黄泉さんは優しい、心の中で何度も呟く。
 だが、仔猫が温もっていられたのはほんの僅か。
 不図、丙は腹の下に悪寒を感じる。自らの意思とは無関係に、極自然な生理現象は、これ程大好きな黄泉へ向ける意識ですら、あっさりと拡散させてしまう。……本当は、目が覚めたのもそのせいだったに違いない。丙は急にむずむずし始めて、寝床の中で何度か寝返りを打ってみたが、やはり我慢できずに、遂には寝床を抜け出ようと決心する。
 腹の上の黄泉の腕をよいしょと退かす。芋虫の如くもぞもぞと腹這いで、寝床を抜けるまでは滞りなく進んだのだが……。
 黄泉の寝床を囲う幕の内から抜け出るという段、
「どうした……?」
「ひっ。」
 何の前触れもなく発せられた声に、丙はもう少しで頓狂な悲鳴を上げるところだった。片や黄泉は、丙の挙動不審に起きることを余儀なくされた不機嫌からか、はたまたただ単に眠気が冴えないだけか、いつもにも増して低いその声は、弱い丙に、下手な小芝居を打とうものなら即座に殺され兼ねない勢いの恐怖を与えた。お蔭で、四つん這いに尻を突き出した格好で恐る恐る振り返る丙は、
「お、お便所に……。」
 便所にまで「お」をつけるくらい、緊張した。
 幸い、黄泉は「そうか。」といっただけで目を閉じた。丙は、自分を素っ気なく突き放す相手が黄泉であるにも関わらず、珍しくほっと息を吐いた。しかし直後、
「おい。」
「はいぃ……!」
 どすの利いた声で呼び止められる。丙は目に涙、背に脂汗で身を凍らせた。が、そんなことは意に介せずか、黄泉は億劫そうに身体を動かし、枕元に畳まれた厚手の布に手を伸ばす。そして、
「寒いからこれ持っていけ……。」
「……。」
 いつもはぶっきらぼうに優しさをみせたがらない男が、時折さり気ない優しさをみせたりする。黄泉の気遣いを、丙は素直に喜び、感謝の気持ちをできる限りのいい笑顔に変えて、布を受け取った。

 幕の外は、雲ひとつない夜空がちんとした広がりをみせていた。月明かり遥かに高く、それはまるで散り散りに輝く身勝手な神々を超越した力で統率する唯一の神の如く、振りかざした杖の下、尊い光を満たし尽くす。だから、あんなに大勢の星たちも、月の前では子供のように従順に光る。月が尊いから。月は、ひとりしか居ないから。
 だが、月は辛くはなかろうか。月は寂しくなかろうか。何者の側にも居るようで、何者の側にも居ない。何者も近寄り難いものとして、遠巻きの位置からそれをみつめるだけ。月に届こうとしても、己の光を掻き消されてしまうから。月はそれだけ尊いから。
 丙は思わずほうっと空をみ上げる。が、吐息が白く変化することに気づくと、身体をふるっと震わせて、黄泉に渡された布を広げ、肩を覆った。寒そうに両の腕を抱き、とぼとぼと歩き始める。
 客間に上手(かみて)と下手(しもて)があるように、巣窟にも階級によってそれなりの秩序があった。
 巣窟は、奥へ行く程階級の高い者が住まうように自然と区分けされていた。よって、最奥が大将の居る場所、その手前が副将、幹部の面々、という具合に配置され、下級兵士は入り口付近に寄り固まって暮らしていた。
 黄泉の寝床は幕の引かれた内に在ると、先程ちらりと書いたが、幕(テント)を張るなどの方法で私的な空間を許されているのは高階級者の幹部まで。他は、眠るときでも大抵雨ざらしの空の下だった。無論、季節が変われば野宿も命に関わる危険があるから、外界との仕切りを大きく張ることはあったが、この大所帯。全員無事に入り切ることは不可能だったし、慣れれば猿の子のように身を寄せ合って眠るほうが暖かかった。それにここは森の中。頭上高く茂る木々は天然の屋根と呼べないこともなかった。
 何にせよ、空間に個々の自由がない生活を強いられてはいたが、下級兵士は皆上下関係とはそういうものだと納得していたから、文句をいう者はほとんどいなかった。丙も本来なら天然の屋根の恩恵を受けて眠る待遇である。
 住空間に秩序があるくらいだから、便所の配置にも秩序があった。
 黒いテントが並ぶ場所を抜けると広場に出る。巣窟の中央に位置する広場は、森を大きく円形に刈り取ったような形状をしていた。所謂「共有空間」で、作戦会議から酒宴まであらゆる会合が行われる、日中一番人口密度が増す場所である。この辺りから、傍らに太刀を携えることを忘れない中級戦士が大木を背にして眠る姿が、点々と現れ始める。屈強の戦士たちは、若い丙が目の前を通り過ぎる度に眠っていた筈の目をすうっと開き、邪魔だからとっとと行けとばかりに、鋭い睨みで叱りつけた。その度に丙はひどく萎縮して、「済みません。済みません。」と頭を下げて歩いた。
 そうして更に進むと、今度は狭くなっていく通路いっぱいに雑魚連中が、文字通り雑魚寝の状態でひしめいていた。真夜中では明かりが灯っていることも期待できず、丙は薄暗い中を、僅かな月明かりだけを頼りに歩いた。しかし、これだけの人数が居ると、気をつけていても何者かの身体を踏まない訳にはいかなかった。踏めば道すがら、足や尻などを蹴られもするし、強面(こわもて)に殺気走った目で睨まれたりもする。足の下に柔らかい感触が当たる度に、丙は、
「あ、やだ、踏んじゃった。あ、御免なさい。どうしよう、御免なさい。」
 と謝り謝り進んだ。
 そうかといって、下ばかりに気を取られていると、今度は入り口付近の見張り台で夜間警備につく宿直兵に闖入者と間違えられて、高みから弓矢で狙われていたりもするので、その度に丙は両手を上げて、
「いやん、違います。違いますぅ。(T_T)」
 と誤解を正して回る必要があった。
 だから、便所に到着する頃にはふらふらに疲れていた。
 盗賊も末端になると片身が狭いものである。個室に入り、ほっと一息、用を足す。

続く ...

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