Date
2 0 0 4 - 1 0 - 0 5
No.
0 2-
月下才人
i n t h e m o o n l i g h t
月明かりの下、雑魚寝の連中を踏んでは謝り、踏んでは謝りしながら、丙は必死の思いで広場まで辿り着いた。ここまで来ればひとまず安心か、ふうっと深く息を吐いて……。
丙は夜空をみ上げる。藍色の深みにぽっかりと、白金の月の浮かぶ様を仰ぎみる。
今宵はよい月夜だ。丙は素直に思う。そして、理由はどうあれ、今、この月夜の下に直に佇んでいる己は、真に幸運の持ち主だと思う。
誠、見事な月夜であった。それは、眠ってしまうのが勿体無いくらいに────
……そう、その男が思っていたかは別として。
不図、丙は前方に視線を向けた。気配を感じた訳ではなかった。第一、その男には気配というものがなかった。だからただ何となく、偶然に促されて、前をみつめた。
視線の先、広場の奥まった一角には、大きな一枚岩がどっしりと横たわっていた。高さはないが一間程の広さがあり、上部はほぼ均一に平らな形状をしている。さながら「小舞台」のようなこの岩は、集会を開くときによく利用された。駒となる盗賊たちが集い、小舞台には指揮者が立つのだ。指揮には大将、副将以下、幹部までが当たる訳だが、作戦会議ともなれば立案者が指揮に就くことも多く、必然、大将が小舞台に上がる機会は多かった。そのせいか、盗賊たちの間ではこの「舞台岩」は蔵馬の居場所という印象が広まり、普段でものこのことこれに上る者はまず居なかった。
それに蔵馬自身も何かとこの岩を好んでいるらしかった。酒宴のときなどは、座したままでも広場全体を眺望よくみ渡せるこの場所にひとり座り、莫迦騒ぎに興じる若い衆を愉快そうに眺め、酒に舌鼓を打つ、そんな光景を思い出す者も少なくないだろう。
だから、居るとしたらここしかない、とはいえるのかもしれないが……。
先刻、丙は便所への経路として同じ場所を通った筈だが、果してそのときも居たのだろうか?……恐らく、いや、不注意な丙が全く気づかなかったというだけで、その男は間違いなく「居た」のだろう。仮にその男が「起きてきた」のだとしたら、巣窟内に僅かでも動きがなければおかしい。例えば、丙がちょろちょろと迷惑をかけた中級戦士などが、動静に興味を示さない筈はないし、一対行動の宿直兵が内ひとりでも問題の有無を問合せに寄りつかなければおかしいのだ。しかし、その男が以前からここに居たのだとしたら。その男が起きているのは、その男にしか分からない理由が在ってのこと。皆が安静に寝静まり、兵が冷静に任務を続けていても不思議はない。
それは、絵画から切り取ってきたような、高貴で、美しく、そして何より不思議な光景だった。
妖狐は瞑想するように岩の中央に胡坐を掻き、両手は開いたまま、片方ずつを上向きに膝の上に乗せる。その側には酒はなく、いつもは必ず時を共させる書物もない。そしてみ上げる角度、視線の先に在るものは────月。
横顔が時折穏やかに微笑むのは、月との対話を楽しんでいるからだろうか。或いはこの男ならそれも在り得ると思えてしまうから不思議だ。愛でる心に応えようとするかのように。求め合う恋人同士のように。月光は優しく降り注ぎ、妖狐の身体を包む。緩やかに揺れる。極自然に、溶け込む。
丙は完全に心を捕らわれていた。月に照らされる妖狐は美しく、このまま月とみつめ合っていたら、報われない愛を悲観した月の女神に大事な頭を連れ去られてしまうのではないか、と余計な心配までして心臓を高鳴らせるくらい、純粋にみ惚れた。
多くの若い衆にとって、蔵馬は憧れの存在だった。それは丙も然り。丙は、黄泉のことは確かに存在としては惹かれていたが、自分自身の理想はやはり蔵馬だった。
妖狐蔵馬という男は、世間一般ではどうしてもその容姿の端麗さばかりが強調して語られがちであったが、実物はおよそ容姿とは結びつかない豪傑で、闘う姿は勇ましく、度胸も在り、まさに非の打ち所のない大将の器。そして、やはり美しかった。
丙は、若い衆の教授役になることの多い甲にはもちろん、大好きな黄泉に剣術を教わるときでさえ、その終いには必ず、「俺は頭のような盗賊になれるのだろうか?」と、率直にきいた。黄泉や甲などは上層幹部らしく、元より下の者から投げられるその手の質問に対しての回答を示し合わせていたから、口では「努力すればなれる。」と答えたが、丙をみつめる目はいつも苦笑がちに、「蔵馬では理想が高過ぎる。」と本音を漏らした。だが、あからさまにそれを示されたとしても不快に思わないくらい、丙にとって蔵馬は一線を画した崇敬の的なのだった。
ぼうっとみ惚れていると、不意に蔵馬が瞬きをした。直後、月をみ上げる角度からゆっくりと斜め左下へ、流れるように視線を動かし……、それは丙の目を捉えてぴたりと止まった。
その自然過ぎる所作に、丙は気づくのが遅れた。結局丙は、蔵馬と目が合う段になっても呆然と眺め続けるという失態を犯した。
実際、何事が起こったのか分からなかった。だが数秒後、蔵馬に「みていた」ことが「みつかった」のだと知る。途端、
「……ひっ。」
丙はひどく動揺し、寿命の三年は縮む緊張感を味わった。
そして、しばしみつめ合う。蔵馬が目を逸らさなかったのと、蔵馬にみ据えられた丙が脂汗を掻いて固まっていたのと、その両方が影響して、ふたりは視線を交わし合ったまま動かなかった。
やがて、
「す、……済みません。」
先に動いたのは丙だった。その態度はあくまで末端らしく、己が非かはさて置き、とりあえず謝るだけ謝ってそそくさと目を逸らし、その場から速やかに立ち去ろうと足を引いた。蔵馬にくるりと背を向けて、布に包まった丸い背中で、とぼとぼと歩き始める。縮こまった身体は寂しげで、冬空の下に捨てられた子犬を思わせる。元来世話好きで、丙が考えるところの黄泉と同じ本質を持つこの男は、萎縮した可哀想な子犬を黙って行かせることがどうにも忍びなかった。だから、
「丙。」
その静かな声に、丙は寝床へ帰る足を止めた。そろそろと振り返り、不安そうに揺れる目に蔵馬を映す。
「眠れないのか?」
「……。」
決して叱られている口調ではないのに、丙は辛そうに眉根を寄せた。
一度、首を横に振る。……が、
「?」
すぐに何かを思い直す。何かよい考えが浮かんだ、といったほうが正しいか。ぱっと身体ごとを蔵馬の正面に向き直り、大きくみ開いた目で蔵馬をみつめると、今度は首を縦に大きく二回振った。
丙の至って素直な態度を確認して、蔵馬はなぜかそっと目を細めた。
「そうか。それは辛かろう……。」
そういった蔵馬は、眠れない丙を深く思い、心底辛そうな顔をした。
知っての通り、丙は便所に行くという単純明快な理由で寝床を抜けてきただけなのだが、蔵馬の表情をみていると、己は本当に眠れなくて、そのせいでここに立っている現在の状況は真に辛いことであるような気がしてくる。丙はつんと胸が痛んで、自分自身に向かってもう一度頷いた。
丙の心には、今、ある思いがあった。頭の側に居たい。居てみたい。蔵馬は丙の憧れ、当然強い好意を寄せてはいるが、その思いがあまりにも特別であったため、黄泉にするときのように素直な態度に出ることができなかった。側に寄れば心が乱れ、目をみることもできずに怖気づく。遠過ぎる存在を思い知る。それに、蔵馬の側には、特にそうするという決まりもないのに、甲か乙かが遠巻きにつき従っていることが常だった。こんな機会、滅多にあるものではない。
だが、丙はまた思う。……頭が俺を寄せつけるだろうか?例え人恋しくとも、それを紛らすための相手にわざわざ俺などを欲するだろうか?この美しい月夜に、あの氷の目にみつめられて否といわれたら、俺の心はきっと音を立てて砕け落ちてしまう……。
だから丙は、自ら不躾に一緒に居てもよいかと問う気にはなれない。しかし、呼び止められていれば黙って立ち去る訳にもいかず、立ち尽くす丙の視線はやがて足元に落ちて固定された。
その様子をじっと瞳に映して、……熱い気持ちが少しは伝わったのだろうか、蔵馬はすうっと首を傾げた。
「ここへ来るか?」
「!」
丙は跳ねるように顔を上げる。それを確認して、蔵馬は無表情から目を優しく細めてみせた。うれしさに頬を紅潮させて、丙はブンとひとつ頷いた。
続く ...
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