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月下才人  i n t h e m o o n l i g h t


 丙はよじよじと岩に上った。初めての経験だ。岩は低いようにみえるが、上ってみると案外み晴らしがよい。振り返り左から右へとみ渡すと、巣窟が入り口から最奥まで一線でつながっている様がよく分かる。内部全体を確認するという意味では、入り口の見張り台よりも役に立ちそうだ。ここに立てば、小柄な丙の背丈でも、並み居る大男たちよりも頭ひとつ抜きん出た格好になる。それを想像すると、丙はちょっとだけ偉い人になった気がして、胸がワクワクするのだった。
 しかし、上ったはよいが、己の居るべき場所が分からない。蔵馬は岩の丁度真ん中辺りで、胡坐を掻いて、左膝に頬杖をつく格好で丙をみていた。そんな観察される立場の緊張感も加味されてか、困り切った眉を八の字にした哀れな丙は、上ってすぐのところに怖ず怖ずと正座して、置物のように固まった。蔵馬がいう。
「そんな縁(へり)に居ると、落ちるぞ?」
「……。」
 大将の指摘は尤もであり、素直に従う義務が階級である。丙は遠慮がちな尻をこそっと浮かせる。ただ、やはり大将の側へ寄るのは恐れ多いらしい、八の字眉の間に皺を寄せた妙に情けない顔をして、膝で少しばかりにじり寄っただけで、まだ大分離れた位置にちょこんと腰を下ろしてしまった。
「そこでよいのか?」
 丙が黙ってうむと頷く。蔵馬は苦笑した。

 ふたりの間には依然距離はあったが、沈黙に呑まれることはなかった。蔵馬が意識的に丙の緊張を和らげようとしていたせいだろう。丙をみつめる蔵馬の目はいつになく優しい。この男、元来若い者と戯れるのが好きらしい。……本当はこの機会を一番楽しんでいるのは蔵馬なのかもしれない。会話をする。
「丙は、この組織に入ってどれくらいになる?」
「……十年か、そのくらいです。」
「そうか。もうそんなになるか。」
「……。」
「早いな?」
「……。」
 丙の返事はことばではなく、ただうむうむと頷くのみである。しかし、蔵馬はそれを叱るどころか、幼子をみ守る父親のように、微笑ましげに目を細めるのだった。
 蔵馬と丙は、映画のような出会いかたをしていた。……少なくともそういう噂である。ただ、それも過去のはなし。直接知る者は今では一握りしか居らず、何でも亀に苛められていた丙を蔵馬が助けたとか、街角で燐寸(マッチ)を売っていた丙を蔵馬が身請けしたとか、色々な憶測が飛び交うものであるが、中でも「行く宛がないなら、一緒に来るか?」と蔵馬に問われて、丙が無い尻尾を振りながら喜び勇んでついてきた、というのは如何にも真実味が在るはなしである。
 さて、素直に頷かれるのはよいとして、あまり続くと、それがどのような問いであっても素直に頷き続けるのか、試してみたくなるのが人の情。
「仕事は楽しいか?」
「……。」
「剣術の腕は上がったか?」
「……。」
「教授役は甲だったな。」
「……。」
「あの男は何でもできるからな……、時々嫉妬すら感じる。……甲は優しいか?」
「……。」
「そうか。それはよいことだ。……ふむ。おまえは確か、黄泉に教わることもあったな。」
「……。」
「あの男はみかけに寄らず世話好きだからな。あの顔で……と、顔については人のことはいえんな。黄泉は優しいか?」
「……。」
「そうか。それはよいことだ。」
「……。」
「で、オレは恐いか?」
「……。」
「……。」
「は!」
 丙は顔を真っ赤に染めた。質問と返答。その関係の重大性に気づき、慌てて首を横にぶんぶんと振ったが、時既に遅し。蔵馬のくすくす笑いが森の闇に響く。
 蔵馬はいつも笑うときにするように、右の拳を口に当て、
「そうか、オレは恐いか。」
 愉快そうに、いつまでも笑う。
「ち、違いますぅ……!」
 丙は必死に首を振って否定する。その涙目の弱り目な態度が、益々蔵馬の笑いを誘う。
「そうか。そうか。」
 延々笑う。
 だが不意に。蔵馬は笑うのを止めた。
 訝しくみつめる丙へ残りの笑顔をくれてやると、すうっと、天をみ上げる。
「よいのだ。」
 何か深い思いがあるらしい顔をして、呟く。
「最上位は、甘くみられないほうがいい。」
 と、オレは思うのだ。と軽く締め括り、丙に視線を戻したときには、再び悪戯な笑顔をみせる。
「……。」
 丙は黙って蔵馬をみつめた。そこに己には捉え切れない心が在るような気がして、先刻受けた計略を、憤慨することも悔やしむことも忘れ、蔵馬の呟きをただの耳となってきいた。
 夜風が吹き、
「時に丙。」
 と蔵馬がいった。
「は。はい。」
「今宵は黄泉と寝ていたのではないのか?」
「え……。」
 この問いかけは、当人にとっては単なる「確認」であった。丙が黄泉と寝るに当たって、事前に揉め事が発生していたのは知っていたし、何より仲裁に入ったのは蔵馬本人である。だから、これは何気ない質問の一端。更にいえば、先に丙は「眠れない。」といっている。もしもその裏に、黄泉の丙を遠避けるための「何らかの悪意の行動」があったとしたなら。後日、黄泉にはそれ相応の制裁を加える必要があると考えている。しかし、
「……。」
 丙の緊張した面持ちが、ゆっくりと頷いた。なぜなら……。
 「蔵馬は黄泉を特別視している。」
 ────この組織に居れば、周知の事実である。その「特別」が、どのような意味を表すのかは誰にも分からない。ただ、黄泉をみつめる蔵馬の目は、明らかに他とは違っていた。……若い丙にもそれくらいのみ分けはつく。
 だから丙は、今宵の黄泉との接触を、手を握るよりも幼い「温もりを求めて側に居る」、ただそれしきの接触を。蔵馬の目の前で認めることが恐れ多かった。少なくとも、己は頭に対して負い目を感じる必要がある。思うからこそ、丙の視線は正座した膝の間に自然と固定されてしまう。
 若者の複雑な思いを知らぬまま、蔵馬は「そうだな。」と呟いた。会話としては成り立たないこの相槌に、丙は気づかない……。
「おまえは黄泉と懇意なのだな。」
「……。」
 懇意なのだな、といわれると、ちょっと違う気もするが……。ここはあえて反論せず、重そうな頭をこくんと頷かせた。蔵馬が呟く。
「おまえに近い連中は、あの男を怖い、怖いとよくいうが、おまえは違う……。」
 それは問いかけというより、独りごとに近い。いつも思案するときのように顎に手を当てて、「おまえはあの男が好きなのだな。」という。
 蔵馬のことばに、それらしい感情はみられない。あえて感情を殺しているようにもみえない。だが丙は思う。己が黄泉を好いていることは、実は頭にとても申し訳ないことなのかもしれない。心が痛む。蔵馬は丙から視線を外し、遠くをみつめている。
「黄泉さんは……。」
 丙がいう。
「黄泉さんは、優しいです……。」
 何を問い質されている訳でもないのに、吐露する感情。丙は正座の膝の上できつく拳を握る。蔵馬がいう。
「そうだな。」
「……。」
 あの男は優しい────遠くをみたままの目を細める。
 蔵馬は、黄泉は優しいといい、身を震わせる程に緊張する丙の心を、「丙が一途に、深く黄泉を思っているせいなのだ。」と捉えた。無論、丙は頭を前にした自らの発言の恐れ多いことに今更ながら驚き、戦慄に身を震わせただけなのだが、蔵馬の目にはその様子が、実に微笑ましい光景のように映るのだった。
 片や丙は、あの男は優しいといい、愛しそうに目を細める蔵馬の心を、「頭と黄泉さんの間には、やはり噂通りの深いつながりがあるのだろう。」と捉えた。それを認めない、或いは立場上認めることが叶わない頭は、丙の目にはとても哀れな人のように映る。益々心が痛む。
 だが。……だからこそといえばいい。丙は勇気を振り絞る。
「俺は……。」
 それは敬愛する頭へ、己に出来得る唯一のこと────告白する。
「俺は、黄泉さんが好きです。」
「……。」
 静かに切り出す丙に、蔵馬は不思議そうな眼差しを向ける。丙はいう。
「でも……。」
「……ん?」
 震える声がこう続ける。
「でも、黄泉さんには……、他に思い人がいるのです。」
「……。」
 蔵馬は丙をみつめ、「そうか。」といった。きゅっと眉根に皺を寄せ、
「それは、辛かろうな……。」
 真に辛そうな顔をする。丙が身を置いている現実からみれば、蔵馬の言動は厭味と捉えられなくもない。しかし、崇敬する頭がみせるそれであれば、影響を受け易い丙には、思いの叶えられない己は本当に辛い人のように思えてくるのだった。少し落ち込む。
 だが、次には気を取り直し、
「平気です。」
 元気よくこう答えた丙は、目の前の人物だけを真っ直ぐにみつめ、笑った。
「俺は平気なんです。……だって俺、黄泉さんのことは好きだけど、黄泉さんの思い人のことも、同じくらい好きだから。」
「……。」
 少年らしい、爽やかで自然な笑顔だった。
 心から幸福そうな、それでいて、この世に起こる邪悪のすべてを悟っているような……。
 蔵馬には、目の前の若者の表情がとても高貴に映る。
 それは、心の濁った己には決してできないことだから────
「そうか。」
 蔵馬は微笑む。
「おまえはいい子だな。」
 心からそう思うから、
「おまえはいい子だ……。」
 丙に向けていた目を遠くへ戻し、独りごとをいう。

続く ...

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