Date
2 0 0 1 - 0 9 - 0 8
No.
0 1-
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v e c t o r
「黄泉ぃ〜、心配したよお!」
黄泉が巣窟に一歩踏み込むと、その帰りを待ちわびていた若い男が素っ頓狂な声を上げ、駆け寄ってきた。そして、そのままの勢いで胸にすがりついてくるのだから、黄泉は狼狽えた。
「だ、抱きつくなよ!こらっ!」
だが、若い男は黄泉の胴にしっかりと腕を回して、振り解こうにも離れない。
「暑苦しいだろうが!」
「だって寂しかったんだよぉ……。」
「公衆の面前でなつくな!」
黄泉は男の存在を無視し、身体ごと引きずるように歩を進めるのだが、
「じゃあ公衆の面前じゃないところに行こうよ。」
効果はない、男はべたべたと寄り添い甘えた声で馴れてくる。
その様子を巣窟にいる連中が微笑ましくみ守っている。……微笑ましいというか、ばかばかしさからくる苦笑というか。どちらにせよ、若い男が黄泉を極度に慕っていることは皆の知るところであった。もちろん、黄泉がそれを疎ましく思っていることも知っていたが、だからといって制止してやる義理はない。それに、たまにはこうした下らない光景を眺めるのも楽しい。
「ねえ、どこに行くんだよぅ、黄泉さん?」
「便所。ついてくるな。」
「あ、俺も俺も。」
「嘘吐く奴は嫌いだ。」
「じゃあ手伝う!」
「何を手伝うんだ……!貴様、下らないことばかりいってると殺すぞっ!」
「俺、黄泉になら殺されてもいいよ……。」
外野はげらげら笑いながら野次を飛ばす。
「そういうことを軽くいうなー、丙ちゃん。黄泉は本当に殺る男だぞお。」
下品な笑い声は耳障りだ、黄泉は一同を苦々しい面持ちでみ回した。
蔵馬は黄泉の後から巣窟に入ってきた。ただひとり冷静に、丙を腰にまとわりつかせたままずんずん歩いていく黄泉の背中を眺めている。いつもの、大して面白くもなさそうな目をして。
その蔵馬に気づいて、甲が歩み寄る。蔵馬は誰にいうともなしに呟いた。
「何なんだ、あれは?」
甲が、ふたりの絡む姿を振り返って答えた。
「久しぶりだから燃えるんだろう。丙ちゃん、黄泉くんのファンだから。」
蔵馬は冷めた視線を黄泉に注ぐ。
「あの男のどこがいいんだ?」
そのことばに、甲は、それはおまえにもききたいことだ、といいたかった。堪えたが苦笑を漏らすのは止められない。
ただ、蔵馬に訝しがられるのは面倒だった。とりあえず別のことをいう。
「いや。ほら黄泉くん、目つき悪いけど意外と男前だから。」
「そうか?……オレのほうが男前だぞ。」
相変わらずの愛想のない顔でいうが、それが蔵馬の冗談だというのは分かった。甲はそうだなと頷き、笑う。
「それはそうと、遅かったな、戻り。久々に心配したぞ。」
甲は眉根を寄せ、本当に心配そうな顔つきを作っていった。
「ちょっとな。……ミスして足を挫いた。」
「ほう、珍しいな。」
「昨日のうちに戻るはずだったんだが、黄泉には無理に宿を取らせてしまった。」
「そうか……。大変だったな。怒っただろう、あいつ。」
黄泉の、気が短く腹の狭いところを指していう。だが、
「いや。」
蔵馬があっさり否定したので、
「何だ、それも珍しいな。」
甲は感心したように息を吐いた。
「あの男は、オレの怪我を自分のせいだと思っているから。」
「だが、『自分のせい』なんだろう?」
「ん……、広くいえば遠因に当たるのかもしれないが、現実しくじったのはオレだよ。」
蔵馬らしい考えかただ。甲は軽く笑い、
「で、大丈夫なのか?『身体のほう』は。」
少しだけ、含みを持たせていう。
「ああ。この通り。」
蔵馬は挫いた片足で立って軽く飛んでみせた。そして、ほら無事だろう?と微笑む顔は至って無邪気である。
その表情を確認して、甲は安堵した。
ふたりで夜を明かしたが、どうやら何事も起こらなかったらしい。黄泉は馬鹿な真似をしなかった。だから、蔵馬が傷つくようなことは何もなかったのだ、と……。
帰還から既に一時間は経っていたが、黄泉が解放されることはなかった。胡坐の膝に身体を預けて寝そべる丙を忌々しい思いでみ下すが、もう怒鳴る気も失せている。
「おい。」
「何……?」
「除け。本当に殺すぞ。」
「絶対放さないモン。」
「かわいくいっても駄目。」
「え?今かわいいっていった?」
「かわいくねえ……!」
「黄泉さぁん、今夜から一緒に寝てよぉ……。」
「俺と寝たかったらオンナになって来い……。」
側を通りかかった甲が冷静にいう。
「黄泉、そういうことをいわないほうがいいぞ。丙は単純だから本当にやるぜ。責任取れないだろう……?」
そして、ちらりと後ろをみる。
ふたりを遠巻きに眺められる場所、そこには蔵馬がいた。甲はいい加減心配になっている。蔵馬は自分が不在の間に届いた文書に目を通しているが、頭が忙しくて処理し切れないでいるらしい。先程からは丙の接触を受け入れている、ように蔵馬にはみえる黄泉の様子に、じっと視線を注いで外さない。顔には表さないが、気になるのだ。甲はため息を吐く。
蔵馬はそんな調子だったから、
「いたひ……。」
背後からそっと乙が近づいても、左右の頬をふにっと摘まれるまでは気づかない……。
「蔵馬。そんなに熱くみつめたら、黄泉くんが融けて蒸発しちゃうぜ。」
冗談めかしていうが、乙は、蔵馬の恐らく自分では気づいていない心理にも、甲の度の過ぎた親心にも、埒が明きそうにないので、手を下したくて仕方がない。
ただ、それを蔵馬に覚られると面倒だった。別のことから始める。
「昨日の晩、きいた?」
乙は蔵馬を無理矢理笑わせたまま、はなしを進める。
「う?」
「鍛冶のおっさんが来てたぜ。」
「あんて?」
「『締日過ぎてるけど入金がねえぞ!』って、腐ってた。」
蔵馬の頬を放してやり、痛くした分ふにふにと揉み解す。
「今月は払えないよ、物理的にモノがない。一月延ばせないかな……。」
「そうだろうと思っていっておいた。『とりあえず来月の支払いに回して、後は経理部長とご相談ください。』って。」
「何かいってたか?」
「『あのボクチャンが経理部長か、そいつぁ笑えるはなしだ。がはは。』って爆笑してた。」
「……ぼ。」
「そお。何かうちでも『ボクチャン』流行りそうだぜ。……とりあえず『ボクチャン』って呼ばれたら返事してやる?」
「厭。」
「ははは。そうだろうと思って、皆にはいうなよって釘を刺しておいた。」
こうした一連の会話の間も、蔵馬が黄泉から視線を逸らすことはなかった。余程気になるとみえる。黄泉は蔵馬の目がうるさいらしい、なるべくこの方角をみないように頑張っている。
健気だね、……乙は苦笑し、蔵馬に切り出す。
「『ボクチャン』。」
「無回答。」
「蔵馬。そんなに気になる?」
そして、誰にもきかれない小声で『黄泉くんのこと。』とつけ加える。蔵馬は答える代わりにいった。注ぐ視線はそのままに、
「なあ、あれ。」
「ん?」
「困っているのだろうか?喜んでいるのだろうか?」
指先は小さく黄泉と黄泉にしがみつく丙を示している。乙は少し意地悪く質問を返す。
「どっちだと思う?」
「……。」
蔵馬が腕を組んで首を傾げる。考えているらしい。乙は、考えるようなことか?と思ったが蔵馬には計り知れない思考回路があるのを知っていたから、黙って答えを待った。
蔵馬はぽんっと掌に拳を当てる。そして、満を持した答えは……、
「喜んでいる。」
「外れ。」
乙はため息を吐く。非常に力が抜ける。
「なあ。」
「ん。」
「気になるなら、丙ちゃん引っぺがしてくれば?」
素直じゃない蔵馬は、気になるとは明示しなかったが、
「だが理由がない。第一、自分が被害を被っているわけではない。」
こう答えたのだから半ば認めたようなものだった。これは思いがけずうまい具合にはなしが進みそうだ、乙は内心ほくそ笑む。
「でも黄泉が困ってるだろう?」
「ん……。」
「下の者が困っているときに、助けに入るのも上の勤めだぜ。」
乙は、これで理由は充分だ、と笑う。
「方法は?」
「それは簡単。黄泉と丙の間に割り込んで、丙が抵抗したら一発ぶん殴るー。」
「却下。殴る理由が曖昧。」
「硬いね蔵馬は……。」
この男を納得させるような方法があるだろうか、乙は頭を掻いた。だが、その途端に思いつく。そしてそれは、乙の遊び心が影響したあらゆる意味で『よい方法』だった。
と、少なくとも乙は思う……。
「じゃあさ……。」
「?」
蔵馬の頭の上に顎を乗せるようにして、小さく耳打ちする。
「────って、いっておいで。」
きき終えた蔵馬が怪訝そうに振り返る。意味不明だなと思いながらも、乙の悪戯な目をじっとみつめて確認する。
「それは、効果があるのか?」
乙は自信満々に答えた。
「一番効果あると思うよ、頭。」
俺を信じなさいよ、乙は笑う。
続く ...
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