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欲望の花  f l o w e r o f d e s i r e


 奴の鼓動、奴の匂い、奴の体温……。
 蔵馬を形成するすべてが俺の側にある。その現実を肌で感じたとき、怒りも、苛立ちも、どこかへ消え去った。身体の下で蔵馬は身じろぎせず、不思議そうな眼差しをじっと俺に注ぐ。穏やかな呼吸はリズムを刻み、俺の口元に熱くかかる。
 負の感情が存在しない俺の身体には、代わりに新たな心理が生まれている。
 もっと深く触れたい。
 多分、心の奥底で強く望んでいたのだろう。奴はずっと触れることを許されない存在だった。奴自身が他人を拒み、ガラス玉のように感情の欠如した瞳が自然何者も近づけようとしなかった。
 奴の目。
 鏡のように俺を映す。
 柔らかく流れる髪。雪のように白く、雪よりも冷たい肌。
 俺は純粋な感動として思う。────綺麗だ、と。……野郎をみて綺麗だなんておかしなはなしだ。無論そんなことを感じるのは奴が初めてだ。
 そして、恐らくこの先何年生きていても、これだけ心を乱される男に出会うことはない。
 そう思ったとき、俺の中で何かが弾けた。
「蔵馬……。」
 そっと身体を沈める。頬に軽くくちびるを当て、そのまま首筋を探り髪の匂いを嗅ぐ。
 蔵馬。
 俺の欲望。
 俺を動かす理由。
 奴は俺を突き抜けた闇の先をみつめる。憤りもなく、怯えもなく、感情がない。生気のない身体は動くこともせず、無残な現実に身を任せる。
 左手で頬に触れる。その手をゆっくりと下ろし、着物に手をかける。蔵馬は相変わらず人形のように横たわるだけだ。しかし、自分の置かれた状況には気づいたのだろう、身体が緊張しぴくりと震える。それでも、逃げる様子はない。
 静かな夜だ。外では雨が降り始めたらしい……。

「おまえはそれで満足なのか?」

 はっとして顔を上げる。
 咄嗟に、奴は俺と目を合わせるのを避けるように顔を背けた。だが、俺はみてしまう。奴の目が、不安げに揺れるのを……。初めてみる奴の表情に、俺はことばを失った。
 そして、気づく。
 俺には届かないのだ。
 この花を、手折ることなど叶わない。多分、永久に……。
「済まなかった……。」
 俺は身を退いた。おずおずとぎこちなく身体を除け、奴の目を避ける形で少し離れた場所に胡坐をかく。自分の蒔いた種ながら、奴には合わせる顔がない。入れ込んでいた女に振られたばかりの無様な男の姿を思わせ、何だか惨めで滑稽だ……。
 しばらくの間、蔵馬は空をみつめたまま無気力に身体を横たえていた。やがて、思い出したようにのろのろと鈍い動きで身体を起こす。外套を膝に引き寄せながら、乱れた着物の胸元を直している。俺のほうをみようともしない。
「済まない。」
 馬鹿な俺は同じことばを繰り返す。
「もういい。」
 奴は火に向かい、膝を抱く。咎めることも、非難することもない。既にいつもの空虚な気配に戻っている。あれだけの暴挙に出ても、俺は奴の頭の片隅にも存在することを許されない……。
 俺は虚しさと脱力感から、呆然と蔵馬の横顔を眺めた。
 蔵馬は手近の木片を火の中に投げ入れている。時折それを掻き混ぜる行為で、立ち上がる炎の中に俺のすべてが忘却されていく……。
 無性に居た堪れなくなった。俺は立ち上がる。ただ、逃げ出したかった。一刻も早く、この場から。
「外。」
 何もいわずに去ろうとする俺に、火をみつめたまま、色のない無感動な声がいった。
「……雨が降ってる。」
「そうらしいな。」
 俺は奴に背を向け、ことばだけは返したが、歩みを止めることはなかった。すると、
「……黄泉……!」
 突然、蔵馬が苛立ちをみせる。深く息を吐き、うんざりした様子を隠しもせず、乱暴に長い髪を掻き上げながら俺を問い詰める。
「……なぜそうやってオレから逃げたがる?」
「逃げ……。」
 ……奴のいう通り、俺は逃げている。だが、弱く勇気のない自分を認めたくない。そして、奴に特別な思いを抱いている自分を認めるわけにはいかなかった。
「逃げて、なんか……。」
 俺は嘘を吐くときにするように地面をみつめる。その背に、奴が問う。
「じゃあなぜオレの側を離れようとするんだ?」
「……。」
「オレといるのが、そんなに厭か?」
 俺はことばもなくその場に立ち竦む。奴の声が小さく、頼りなく呟く。
「そうやっていつまでもオレを嫌うのか……?」
「……な。」
 ……目が点になった。
 これ程愕然とさせられる質問が今までにあっただろうか。
 蔵馬はただ無意識に、興味のあることを興味のままにきいただけなのだろう。しかしそれは、愛しさを持ちながら側にいる者にとってはあまりに残酷なことばだった。
 俺はゆっくりと振り返り、奴を正面にみ据えた。
「それ……。本気でいってるのか?」
 蔵馬は相変わらずの空虚な目をして俺をみつめる。何もいわない。頷きもしなかったが、その表情をみている限り、冗談でいっているようにはみえなかった。だから、俺は思わず呟いた。
「おまえ、……そんなことも分からないのか?」
 呆れた声になってしまう。実際呆れてことばを吐けるのが不思議なくらいだ。
 そして、それをきいた奴の顔色は曇った。明らかに、俺のことばを負に捉えた顔をしていた……。
「ふ。」
 俺は笑った。げらげらと、大袈裟に腹を抱えて笑った。
 今度は奴の目が点になる番だった。だが構わない、
「おまえは、時々頭がいいのか悪いのか分からなくなるな。」
 そんなことをいいながら、兎に角笑ってやった。
 随分な笑い事だ。
 おまえが心底そう思うんだとしたら、さっき俺がしでかしたことは一体何だったんだ?側にいるのが厭だと?おまえを嫌う?それどころか俺はこれ程までにおまえに心を焦がしている。何だか現実がばかばかしく思えてくる。
 無性に寂しくて、情けなくて、笑えた。道化にしかなれない自分自身が悲しくて、蔵馬の現実がみえない心が悲しかった。
 狂おしいよ、どうにかなってしまいそうだ……。
 奴はこれのどこが笑い事かも分からないらしかった。不安げな目をして、俺をじっとみつめている。逃げる気持ちも失せる。大体なぜこの場を離れなければならなかったのか、その理由すら思い出せない。
 それに、そんな目をされては、おまえをひとり残していくことなんてできない……。
「馬鹿なこというなよ……。」
 俺はそっと奴の側まで進み、奴をきちんと正面に向かせてそこにしゃがむ。そして、目をみて、いいきかせるように否定する。
「厭じゃねえよ。」
「……。」
 蔵馬には俺の行動が不思議に映るらしい。少し首を傾げ、幼さを思わせる顔をして、ただ不思議そうに、そこにいる。
「なあ、蔵馬。」
「ん。」
「俺がおまえを嫌っているなら、なぜ手負いのおまえと夜明かしすることになったのだろう?」
「……。」
「多分おまえは知っていると思うが、俺は足手まといが気に食わない奴なら、例え仲間でも捨てて帰るぜ。」
「だが……。」
 まだ反論があるのか。この男の天邪鬼はいつになったら治るのだろう、俺は苦笑しそうになるが、
「おまえはオレの側からいなくなるだろう?」
 奴は少しだけ寂しそうに目を細めた。何もいうことができない。
「今日だってそうだ。手の届くところにいると安心していても、いつの間にか消えてしまう。」
「……。」
「オレの知らないところで危険な目に遭っていたり……、だがそれは、大抵は、おまえの力量があれば切り抜けられることで、おまえのいう通り、オレは構うべきではないのかもしれない。でも……。」
 ことばを区切り、奴は目を伏せる。
「……戻ってこない気がする。誰かに殺られてとかじゃなくて、……おまえの意思で、もう戻ってこない気がするから、いつも不安になる。」
「なぜおまえが不安になるんだ……?」
 奴が顔を上げる。痛いくらいに真っ直ぐに、俺の目を覗く。
「オレは、おまえがいないと駄目だから。」
「……。」
 心が貫かれた気がした。肉体が傷つけられるよりもずっと辛い痛みだ。それに、俺はひどく動揺している。初めてきかされる奴の思い……。
 もちろん、俺は知っている。切実に訴えている今でさえ、俺は奴の特別ではない。奴が形成した輪の一角に過ぎないのだ。だが。
 確かに奴は、俺がいないと駄目だといった。
 ……だから今は、それだけでいいと思う。今宵の事象が消化されてしまっても、構わない……。
「黄泉。」
「……何だ?」
「オレを不安にさせるなよ……。」
 蔵馬は穏やかに呟く。そして、そのくらいならおまえにもできるだろう?と軽く微笑んだ。

続く ...

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